九十九秒の雨
二十八歳の実相寺壱成は、環境音を収録する仕事で「雨囲い」という録音アプリを使った。山村の古老が雨漏りを止めるために唱えた《九十九粒》を、ノイズ除去機能へ組み込んだものだった。
アプリ内の採集メモには、太字の注意が一つある。
《録音中に雨音が始まっても、九十九秒までは停止してはいけない》
九十九まで数えれば雨は家の外へ戻る。途中で止めれば、残りの雨が録音した場所へ降り続けるという。
壱成は晴れた夜、自宅の防音室で検証した。窓も水道も閉め、マイクを机に置く。録音開始から十二秒、ヘッドホンの中だけで雨が降り始めた。
二十秒。天井は乾いている。
三十五秒。モニターの波形に、雨粒とは別の足音が混じる。
四十二秒、取引先から緊急着信が入った。翌朝納品のデータが壊れたという。録音を続けたままでは通話へ切り替えられない。仕事を失うわけにはいかなかった。
壱成は停止ボタンを一度だけ押した。
雨音がヘッドホンの外へ出た。
床も壁も濡れないのに、部屋中で豪雨が鳴った。傘を差すような音、長靴が水を踏む音、軒下で誰かが息を潜める音。電話の相手には「そちら、大雨ですか」と聞かれた。
音声ファイルは四十二秒で終わっていた。ただし自動文字起こしは続いている。
【43秒】残り五十七粒
【58秒】屋内へ移動
【76秒】傘、一名分不足
【99秒】雨囲い失敗。居住者を雨側へ登録
壱成は防音室を出た。扉を閉めると静かになったが、廊下には濡れた足跡が一列、自室へ向かっていた。
管理会社に漏水を調べてもらったが、壁の含水率は零だった。担当者には雨音も聞こえない。ただ、壱成の近くへ計測器を置くと、画面の水滴アイコンが人型に並んだ。彼が廊下を歩くたび、足音より先に水たまりを踏む音だけが移動した。
録音アプリの残り時間は、五十七秒から一秒も減っていなかった。
翌朝、スマートフォンの天気ウィジェットだけが現在地を認識しなくなった。住所は合っているのに、地域名が〈室内〉へ変わっている。
通知音が鳴った。
〈実相寺壱成さんの周辺に大雨警報〉
〈予想降水時間:終了なし〉
そして標準の音声アシスタントが、毎朝と同じ調子で告げた。
「外出時は、あなたの中の雨にご注意ください」