九十二頁の空白
休職から戻った守谷灯は、会社の休憩室にある古いエッセイ集を昼休みの居場所にした。余白には歴代社員の感想があり、知らない人同士が愚痴や励ましを残している。
ところが、九十二頁だけ不自然に白かった。題は「休むこと」。紙は毛羽立ち、何かを強く消した跡がある。次の頁には新しく〈空白は怠けではなく、呼吸〉と書かれていた。
復帰初日、同僚たちは優しすぎるほど静かだった。仕事を頼まれないことも、菓子を置かれることも、全部が「壊れやすい人」という札のように感じられた。灯は休憩室だけで、知らない誰かの書き込みに混ざれた。愚痴の字も、失恋の字も、転職を決めた字も同じ余白にあり、自分だけが特別に弱いわけではないと思えた。だから九十二頁の不自然な白さが、かえって胸へ刺さった。
本を持ち出せるのは、人事の新堂、直属上司の荒巻、同期の円城の三人だった。
手掛かりは三つ。休憩室の消しゴムは角が残っているのに、円城のものだけ丸く減っていた。社内研修用のコピーから九十二頁だけ抜かれている。そして消された文字を斜めから見ると、荒巻が以前口にした「休む人は弱い」が読めた。
新堂は研修コピーの欠落を調べると言い、荒巻は昔の発言を覚えていない顔をした。円城だけが白い頁から目を上げなかった。灯は、誰が消したかより、誰が残した言葉かを先に問いたかった。けれど荒巻の前では、円城がまた笑ってごまかす気がした。二人きりになるまで待った。
灯は円城に本を開いて見せた。
彼はしばらく否定したあと、「消した」と言った。
休職前、荒巻がその言葉を口にした時、円城は隣にいた。冗談のように笑ってしまい、後で何度も謝ろうとしたが、灯はすぐ会社へ来なくなった。復帰初日に本を読んでいる姿を見て、同じ言葉へもう一度出会わせたくなかったという。
「勝手に消すのも違うと思った。でも、残しておくほうがもっと違う気がした」
灯は白い頁を撫でた。消された跡は完全にはなくならない。けれど、その上から別の言葉を書く余地はあった。
彼女は鉛筆を取り、円城の一文の下へ付け足した。
〈呼吸を待ってくれた人がいた〉
円城は目元をこすり、「今度こそ、ごめん」と言った。
二人で休憩室の塩せんべいを割る。灯は小さいほうを口に入れた。
「空白って、思ったより息がしやすいね」