乾かない署名

文学賞の授賞式が始まった午前十時二十分、作家の朱雀堂柊が自宅書斎で死んでいるのを配達員が見つけた。胸には銀色のペーパーナイフが深く刺さっていた。机上の新作ゲラには署名があり、指で触れると黒いインクがまだ伸びた。警察は、彼が死の直前まで書いていたと考えた。

容疑者は編集者の端崎梨乃、姪の瀬名垣柚、評論家の比良坂透。三人は十時から都内ホテルの授賞式に出席し、壇上や最前列から動いていない。会場から書斎までは三十分。開会の拍手から最初の挨拶まで、客席を出た者もいない。署名が十時すぎのものなら、全員にアリバイがある。

朱雀堂は前夜、端崎との出版契約を打ち切り、瀬名垣を遺産から外し、比良坂の盗用を告発すると連絡していた。瀬名垣は九時、比良坂は九時十分に家を出た。端崎は新しいゲラを届けるため九時三十五分に来て、九時五十分に授賞式へ向かった。

机に残った手掛かりは三つだけだった。第一に、署名された紙は朱雀堂愛用の原稿用紙ではなく、表面を樹脂で覆った光沢ゲラだった。第二に、彼の顔料インクはその紙では乾くまで五十分近くかかる。第三に、右袖には署名の末尾と同じ弧を描く黒い擦れがあり、紙上の線より先に乾いていた。

端崎は「先生は私の前で署名していない」と言った。だがゲラを持ち込んだのは彼女で、朱雀堂が新刊の刊行拒否を示すため、その場で署名した可能性がある。吸水する袖の染みだけは早く乾き、光沢紙の署名だけが濡れて残った。

「署名は十時すぎのものではありません」私はゲラを傾けた。「朱雀堂さんは九時四十分ごろ、この光沢紙へ署名し、袖で末尾をこすった。布の染みは乾いたのに、吸わない紙上の顔料だけが十時二十分まで濡れていたのです。瀬名垣さんと比良坂さんはその時すでに外出していた。署名の場に居合わせ、九時五十分まで書斎にいた端崎さんだけが殺害できる。全員の十時のアリバイではなく、乾かないインクが死亡時刻を二十分遅らせていました」