二十九歳割引の期限

鳴海葉月が見ていた入居サイトには、赤い数字で残り時間が表示されていた。

〈二十九歳以下限定・初期費用半額 終了まで二時間十二分〉

対象は、駅直結の新しいコリビング住宅だった。家具付きの個室に、共有ラウンジとジムがある。三十歳になる明日以降に申し込めば、初期費用は十六万円増える。

葉月は三回内見した。きれいで便利だったが、ラウンジの音楽が少し大きく、個室の窓は隣の棟に向いていた。それでも十六万円を逃すと思うと、欠点が急に小さく見えた。

友人から届いた誕生日メッセージには、〈二十代最後に何か大きいことしよう〉とあった。大きいことの候補が、契約画面に用意されているようだった。

もう一つ保存している部屋は、来週内見予定の古いアパートだ。割引はなく、駅から十五分。まだ中を見てもいない。

二十三時四十分、葉月は申込書の最終ページまで進んだ。今なら得をする。明日になれば、同じ決断に十六万円多く払うことになる。

けれど、その十六万円は部屋の価値ではなく、今日の自分を急がせる値段だった。

葉月はブラウザを閉じた。得を捨てた爽快感はなかった。胸の中に、十六万円ぶんの後悔が先払いされたように残った。

午前零時、表示は〈キャンペーン終了〉に変わった。

葉月は古いアパートの内見予約を一週間後に取り直した。誕生日欄には三十歳と入力する。割引のない年齢で、割引のない部屋を見る。

キャンペーンの説明欄には、同年代との交流や新しい挑戦という言葉が並んでいた。葉月はそのどれも嫌いではない。ただ、三十歳になれば挑戦の入口が閉じるような書き方だけが苦しかった。年齢を一日越える代わりに、部屋を比べる時間を一週間買う。その交換なら自分で選べる。

損をしたと感じるたび、葉月は内見予約の日時を見直した。失った割引ではなく、残した一週間を使い切るためだった。

それが良い部屋とは限らない。結局、駅直結を選び直すかもしれない。それでも次の申込書には、残り時間ではなく、自分の名前から書くつもりだった。