保存修復室の梅干し
美術館の職員食堂で、香坂まひるの弁当が消えた。
黒い漆に、小さな金の鳥が描かれた箱。父が若い頃に作ったもので、蓋の隅には細い亀裂があった。まひるは「いつ割れてもおかしくないから」と笑いながら、それでも毎日使っていた。
父は名のある職人ではなく、完成品の多くを人へ譲った。手元に残ったのはこの箱だけだ。金の鳥は少し太り気味で、まひるは幼い頃から、それが父に似ていると思っていた。
昼前に食堂へ来たのは、学芸員の伊勢谷、作品運搬の藤代、研修生の三宅。伊勢谷はコーヒーを淹れ、三宅は忘れた名札を取りに来た。藤代は無言で台車を押していた。
冷蔵庫には、弁当の中身だけが白い紙箱へ移されている。机には酸を含まない薄紙が一枚。廊下の搬入札には、まひるの名字と「一時保全」という文字があった。
保存修復室の扉は半分開いていた。
弁当箱は柔らかな布の上に置かれ、亀裂の周りを細い帯で固定されていた。藤代がライトを当てている。
「作品じゃないですよ、それ」
「知っています」
「では、返してください」
「今返したら、今日の開け閉めで割れるかもしれない」
藤代は先週、展示替えの台車を食堂の棚にぶつけた。そのとき弁当箱が揺れ、亀裂が広がったらしい。まひるは気づかず、父の古い仕事だから仕方ないと言っていた。
「謝ったら、もう使わないと言われそうで」
藤代は目を伏せた。
「捨てる理由を作ったのが自分だと、言えなかった」
修復は専門家に相談し、食品用として安全な方法を選ぶ。それまでは貸し出し用の木箱を用意したという。勝手な行為なのに、搬入札の字は展示品に付けるものと同じくらい丁寧だった。
まひるは、父の箱が初めて美術館で「保全すべきもの」と呼ばれたことに、少しだけ笑った。
まひるは白い紙箱から梅干しのおにぎりを一つ取り、半分に割った。
「父は、道具は使われて傷むほうがいいって言ってました」
「では、直ったあとも?」
「使います。今度は、ぶつけない人の近くで」
半分を藤代へ渡す。彼は受け取るまで少し迷った。
保存修復室で食べた梅干しは、展示解説よりずっと率直に酸っぱかった。