保温ジャーの豚汁

夜勤の休憩に入ると、槙野日鞠は母から渡された保温ジャーを開けた。豚汁の湯気が丸く上がり、味噌の香りが白い休憩室へ広がった。

日鞠は三日前、薬の準備で患者名を取り違えかけた。投与前に別の看護師が気づき、事故にはならなかった。報告書はまだ下書きのまま、自分の端末に残してある。忙しかった、似た名前だった、実害はなかった。そう書けば書くほど、提出しなくてもよい理由に見えてきた。

母は、娘が看護師になったことを誇りにしている。夜勤前には必ず豚汁を持たせ、「人の命を預かるんだから、腹だけは空にするな」と言う。そんな母に、辞めたいほど怖くなっていることも、ミスを隠そうとしていることも言えなかった。

日鞠は表面の汁だけをすすった。器の縁は熱く、舌へ触れると少し塩辛い。いつもなら時間がなく、具を残して汁だけ飲む。母は底に沈んだ根菜を見て、もったいないと叱った。

今日も大根とごぼうが底にたまっていた。日鞠は箸を入れ、大根を一つ持ち上げる。柔らかく煮えているのに、歯を当てるまで形を保った。次にごぼうを噛むと、細い繊維が残った。

報告書を出せば、注意を受ける。評価が下がるかもしれない。出さなければ、何も起きなかった夜として終えられる。けれど、汁だけ飲んで具を沈めたままにしても、ジャーが空になったことにはならない。

日鞠は底から順にすくった。全部食べ終えるころ、休憩時間は残り三分だった。ジャーの内側には味噌の薄い輪だけがついている。

端末を開き、下書きの最後に「確認を省いた」と書き足す。忙しさのせいにする文を一つ消し、送信した。

母に辞めたいとは、まだ言えない。けれど今夜は、隠したまま勤務へ戻らない。

報告を送ったあと、恐怖は消えなかった。次の勤務で手が止まるかもしれないし、本当に辞めるかもしれない。それでも、自分が怖がっている事実を隠すことと、安全に働くことは両立しない。日鞠は残り三分を、言い訳を足すためではなく呼吸を整えるために使った。

日鞠は空のジャーを閉めた。蓋を回す手は、開けたときより少しだけ軽かった。