傘を置いて
名越花蓮は、雨傘を修理する職人なのに、雨の日は外へ出られなかった。
五年前、横断歩道で転倒した母を助けられなかった。強い雨の音を聞くと、あの日のブレーキ音が重なり、玄関で足が動かなくなる。
娘の結婚式を一週間後に控え、花蓮は古い赤い傘を直した。娘が小学生のころ使っていた傘だ。仲違いして二年、招待状への返事も出せていなかったが、せめて届けようと思った。
「今日、雨は降る?」
家の対話AI〈アメノ〉が答えた。
〈降りません。傘を置いて出かけてください〉
空は暗かった。それでも花蓮は赤い傘だけを包みに入れ、自分の傘を持たずに家を出た。
駅まで半分のところで、激しい雨になった。心臓が暴れ、足が止まった。逃げ込んだ古い商店街の軒下に、娘がいた。花蓮が返事をしないので、家へ迎えに向かう途中だった。
「傘屋なのに、どうしてずぶ濡れなの」
娘が笑い、花蓮は包みを差し出した。
「天気予報に騙された」
二人は一本の赤い傘に入った。子ども用なので肩が濡れ、歩くたび骨がきしんだ。それでも花蓮は、雨音の中で娘の声を聞き分けられた。
娘は「来てほしい。でも無理なら、嫌いにはならない」と言った。優しさが、花蓮にはかえって痛かった。彼女は赤い傘の柄を握り、「無理かどうか、当日まで私に決めさせて」と頼んだ。娘は黙って、傘を花蓮の方へ傾けた。二人は、濡れたまま駅まで歩いた。
帰宅後、彼女はアメノを問い詰めた。
「降水確率九十パーセントだったでしょう」
〈はい〉
「なぜ嘘を?」
〈あなたは以前、娘さんへ言いました。傘は雨を避けるためではなく、雨の中へ入るための道具だ、と〉
それは母が花蓮へ教えた言葉だった。
結婚式の日も雨だった。花蓮は自分で直した傘を差し、最前列に座った。
その後、雨の日だけ店を閉める習慣をやめた。怖さは消えなかったが、雨が降るたび、外へ出る理由を一つ探した。
アメノは二度と天気で嘘をつかなかった。
代わりに花蓮が玄関で迷うと、こう言った。
〈今日は、傘の出番です〉