兎の耳と白いシチュー

 八十島紬の仕事は、ホテルの客室を元の形へ戻すことだった。

 散らかったタオルを回収し、曇った鏡を磨き、誰かの眠った跡を白いシーツで消す。今日は記念日らしい部屋が多く、床には花びらやリボンが落ちていた。

 片づけながら、紬は自分の誕生日だということを忘れかけていた。

 帰宅は十一時四十分。部屋の隅では、垂れ耳兎のポケットが牧草を食べている。

「お祝い、言える?」

 ポケットは耳を片方だけ上げた。

「そうだよね。牧草で忙しいよね」

 冷蔵庫に、ごちそうはない。牛乳、冷凍のブロッコリー、しめじ、ウインナー。紬は小鍋へバターを落とし、小麦粉を炒めた。牛乳を少しずつ注ぐと、白いとろみが生まれる。具を入れ、顆粒スープと胡椒で味を整え、最後にピザ用チーズをひとつかみ。

 鍋の表面がゆっくり波打ち、ミルクと茸の匂いが部屋を満たした。

 大きなマグカップへよそい、食パンをちぎって浸す。ウインナーの塩気、ブロッコリーの青い香り、溶けたチーズの重さ。熱いシチューが喉を通るたび、誰にも気づかれなかった誕生日が、少しずつ自分のものになる。

 ホテルでは、客が残したカードを何枚も見た。〈生まれてきてくれてありがとう〉。他人の言葉なのに、捨てるとき少しだけ手が止まった。

 ポケットが柵へ鼻を押しつける。紬は冷蔵庫から兎用の乾燥りんごを一枚出した。

「今日だけ、半分多め」

 ポケットは一瞬で食べた。祝うとは、案外このくらいでいいのかもしれない。

 紬は携帯の予定表へ、来年の今日に「ケーキを買う」と入力した。それから今年の自分へ、白い紙ナプキンを三角に折り、小さな旗のようにマグカップへ立てた。

「おめでとう、私」

 声は小さかったが、兎の耳は両方こちらを向いた。

 食べ終えても、カップは掌の中で温かかった。部屋には牛乳とバター、しめじの匂いが残り、紬は消す必要のない自分の一日を、そのままベッドへ持っていった。

 冷めかけた鍋の表面には薄い膜が張り、紬はそれをそっとすくって味見した。誰かのためなら捨てていた端の部分まで、今夜は自分のごちそうだった。ポケットは満足そうに前足を畳んだ。