八十八ミリのかすみ草

砥上初音が音楽教室の練習室へ入るたび、グランドピアノにかすみ草が一枝置かれていた。

毎週土曜、花の位置だけが変わる。最初は中央のド、次はミ、その次はソ。匿名の応援にしては、少し几帳面すぎた。白い粒は、押してほしい鍵盤だけに雪を置いたようだった。

練習室へ入れるのは、同じ伴奏者オーディションを受けた久我、講師の鳳、月曜に調律へ来る塩谷の三人。初音は先月、主催者から「辞退の連絡を受けた」と言われ、身に覚えのないまま選考から外されていた。

その仕事が決まれば、昼の事務職を減らし、演奏を続けられるはずだった。抗議しても受付記録には辞退とある。初音は悔しさを誰にも言えず、花の置かれた鍵盤だけを避けて練習した。

花の茎は、どれも八十八ミリ。ピアノの鍵盤数と同じだった。束ねる半透明のテープは、久我が譜面の破れを直すときに使うもの。そしてド、ミ、ソ、次の土曜のシまで並べると、再選考曲の冒頭になった。

五週目、初音は指定されたラの鍵盤に、自分でかすみ草を置いて待った。

扉を開けた久我は、花より白い顔になった。

オーディション前夜、初音は久我へ「少し迷ってる」とメッセージを送った。久我は主催者から意思確認を頼まれた際、それを辞退だと伝えてしまった。訂正を願い出たものの、初音へ謝る勇気が出なかった。

「再選考が決まるまで話したら、期待だけさせると思った」

久我は毎週、課題曲の音を一つずつ花で知らせていた。練習をやめないでほしかったからだ。昨日、ようやく再選考の日程が確定したという。

初音は腹が立っていた。勝手に決められたことにも、花なら許されると思われたことにも。それでも、久我の鞄には同じ長さに切り損ねた茎が何十本も入っていた。

「次から、私の返事を私より先に決めないで」

「うん」

「それと、伴奏をお願い。謝る時間は、合わせのあと」

二人で椅子へ座る。初音が最初のドを鳴らすと、久我の和音が少し遅れて重なった。

「今度は、ちゃんと聞いて」