冷めないコーヒー

「冷める前に飲んでください」

成瀬航平は、月岡千景の机へコーヒーを置くたびそう言った。

千景は仕事に集中すると、飲み物を忘れる。気づけばカップの表面に薄い膜が張り、成瀬が呆れた顔で新しいものを淹れる。三年間、それが二人の日常だった。

その日、千景の机には段ボール箱が一つ。京都の会社へ転職するため、今日が最終出社日だった。

「最後くらい、熱いうちに」

「分かってます」

口をつけたコーヒーは、いつもより苦かった。成瀬は笑わず、向かいの椅子で送別用の書類を確認している。

千景は何度も、引き止めてほしいと思った。けれど彼は「よかったですね」としか言わなかった。夢だった仕事を応援してくれる優しさが、今だけは残酷だった。

退勤後、成瀬は京都行きの新幹線ホームまで荷物を運んだ。発車まで七分。千景が箱を受け取ろうとすると、彼は代わりに細長い包みを渡した。

中には銀色の携帯ボトル。蓋が二つに分かれ、カップとして使えるものだった。

「一人用にしては大きいですね」

「二人分です」

「京都で誰と飲めば?」

「来月の一杯目は、僕が使います」

彼がスマートフォンを見せる。来月の土曜日、東京から京都への指定席。仕事の予定ではない。さらに、千景が働く新しい店の近くで、二名分の朝食が予約されていた。

「引き止めたら、千景さんは残ってしまいそうだったから」

「そうかもしれません」

「だから、行ってほしかった。会いに行くのは、僕の役目です」

言葉が途切れたところで発車ベルが鳴った。成瀬はボトルを彼女の鞄へ入れ、空いた手を握る。千景が乗車口へ引かれても、最後の一秒まで離さなかった。

車内に入ると、個人メッセージが届いた。

〈日曜の朝、同じ時間にコーヒーを飲みませんか。来月までは画面越しで〉

千景は毎週日曜九時の予定を作り、参加者に航平のアドレスを入れた。件名は「二人分」。承諾の通知がすぐ返る。

座席のテーブルで、千景は会社から持ってきた最後のコーヒーを飲んだ。まだ温かい。

冷める前に飲んで、という言葉は、飲み物のことだけではなかったのだ。

千景は遅すぎる返事の代わりに、携帯ボトルの二つの蓋を並べた。次に満たすときは、同じ場所で二人分だ。