冷蔵庫の低い声

妻が入院してから、夫は冷蔵庫の中身を腐らせた。

料理ができず、見舞いの帰りに弁当を買う。

妻が作り置いた煮物も、娘が持ってきたスープも、食べる気にならないまま奥へ押した。

家電量販店の試供品で、冷蔵庫の振動を言葉にする磁石を扉へ付けた。

扉を閉じた直後だけ、一文聞こえる。

最初の声は、

「奥、木曜」

だった。

木曜に入れた煮物が危ないらしい。

夫は捨てた。

次は、

「上、明日の朝」

娘のスープに「朝食用」と貼ってある。

便利なので、夫は何でも尋ねた。

「妻は何を残した」

扉を閉じる。

「小さい容器、あなた用」

奥から、半分だけ入った漬物が出てきた。

夫が塩分を気にするので、妻はいつも少量だけ別にした。

「妻は戻ると思ってた?」

冷蔵庫は答えない。

食品の場所と、扉を開けた人の手しか知らない。

見舞いで妻は弱り、

「冷蔵庫、ちゃんと見てる?」

と尋ねた。

夫は磁石のことを話し、

「お前よりうるさい」

と笑った。

数日後、妻が亡くなった。

夫は冷蔵庫を開けなくなった。

低い声を聞けば、妻の残した物が減っていく。

全部食べ終えれば、妻が台所から完全にいなくなる気がした。

娘が来て、扉を開けた。

中は古い容器でいっぱいだった。

「これ、もう食べられないよ」

「分かってる」

娘が一つずつ捨てる。

夫は怒り、二人で喧嘩した。

最後に、小さな瓶だけ残った。

妻の手書きで「種」とある。

冷蔵庫を閉じる。

「春、土へ」

瓶には、妻が庭で育てていた豆の種が入っていた。

夫と娘は、食べ物ではなく未来を保存していたことに気づいた。

春まで待ち、二人で庭へ播いた。

冷蔵庫の磁石はその後も、

「牛乳、昨日」

「下、忘れてる」

と現実的なことしか言わない。

夫はそれで十分だと思うようになった。

妻の煮物はなくなった。

味も少しずつ思い出せなくなる。

代わりに、庭の豆を娘と煮た。

妻より固く、味が薄い。

二人で文句を言いながら食べた。

冷蔵庫は過去を保存する箱ではなかった。

食べ、捨て、次の季節へ渡す物を、冷たい場所で少しだけ待たせる箱だった。