切り落としの生姜焼き
砥上湊人の住むアパートの一階は、小さな精肉店だった。
閉店間際、店主の艶子が階段を上がってきて、豚肉の切り落としを差し出した。
「形が悪くて売れ残った。食べる?」
「論文が終わったら」
「肉は締切を待たないよ」
湊人は大学院生で、研究室と部屋を往復するだけの生活を続けていた。書きかけの論文は、直すたびに別の欠点が見つかる。食事を作る時間まで失敗に思えて、最近は菓子パンで済ませていた。
艶子は台所を覗き、玉葱と生姜があるのを確認すると、袖をまくった。
玉葱を薄く切り、生姜をすりおろす。醤油、みりん、酒を合わせたたれへ、少しだけ蜂蜜を落とした。
「砂糖じゃないんですか」
「今日は肉が薄いから、早く絡む方」
フライパンで豚肉を広げると、白い脂が透明になり、端が縮れた。玉葱を加え、たれを注ぐ。甘辛い蒸気が上がり、空腹が急に輪郭を持った。
炊きたてではない冷凍ごはんを温め、二人で丼にした。形の揃わない肉は、むしろ一口ごとに脂身と赤身の割合が違った。たれの染みたごはんをキャベツと一緒に頬張ると、菓子パンでは気づかなかった空腹が、ようやく静かになった。
「切り落としって、余りものですよね」
「売り場ではね。生姜焼きの中では主役」
艶子は千切りキャベツを山ほど載せた。
「人も場所が変われば、役が変わるよ」
湊人は指導教員から「論点が散らかっている」と言われたことを思い出した。散らかったものを全部捨てるのではなく、同じ皿へ置く順番を考えればいいのかもしれない。
「論文も生姜焼きにできますか」
「焦がさない火加減なら」
「たれは?」
「それは自分で考えな」
食後、艶子は残った肉を一食分ずつ包んだ。
「次は自分で焼きなさい」
「失敗したら?」
「一階へ匂いが下りてくる。焦げたら分かる」
湊人は机へ戻り、論文の一節を丸ごと削る代わりに、別の章へ移した。窓の外では精肉店のシャッターが閉まる。
部屋には生姜と醤油の香りがまだ濃く残り、白い画面の前に座る背中を、夕飯の熱が支えていた。