匂い一分の料理店

鷺宮依子は、死ぬまで料理人だった。

神経の病気で舌が動かなくなっても厨房に立ち、最後はレシピを口述して意識をアップロードした。仮想空間なら再び味わえると信じていた。

だが、契約に含まれていたのは視覚と聴覚だけだった。味覚と嗅覚の再現には、生前に採取した高精度の神経記録が必要で、依子が保存できたのは一分間の感覚だけだった。

弟子たちは毎週、料理を持って面会に来た。

「塩はこれでいいですか」

依子には湯気も香りも届かない。成分表から答えることはできたが、それは料理ではなく計算だった。完璧だったはずの舌を失い、彼女は次第に弟子を責めるようになった。

一分間の感覚記録は、開封すれば二度と使えない。依子は新しい店の開店日まで取っておいた。最高の一皿を確認するための、最後の味見にするつもりだった。

開店前夜、彼女は記録を再生した。

蘇ったのは高級食材の味ではなかった。

子どものころ、母が炊飯器の底から剥がしてくれた、焦げたご飯の匂いだった。醤油が一滴落ち、熱くて舌をやけどし、台所の窓から冬の風が入ってくる。母の指には小さな切り傷があった。

一分が終わると、依子は声を上げて泣いた。

彼女が追い続けた味は、正確な塩分でも火入れでもなかった。誰かが自分のために差し出した時間そのものだった。

翌日、依子は店の看板を書き換えた。

《味のない料理店》

客は料理データを食べる代わりに、忘れたくない味を一つ語った。父の失敗した卵焼き、病室の薄いスープ、別れた恋人が作った辛すぎるカレー。依子はそれを聞き、言葉だけで皿を作った。

味覚のある客には何も感じない料理だった。それでも、食べ終えるころには多くの者が泣いた。

弟子が訊いた。

「先生は、もう味を確かめられないのに、どうして料理を続けられるんですか」

依子は答えた。

「味は舌に残ると思っていた。でも、本当に残る場所は、人の話の中だったのね」

永遠の命を得てから、彼女は初めて、客の舌ではなく人生に料理を出すようになった。