午前零時のパン工房
天満谷亮臣が眠るころ、遠野井佐和花は台所で生地をこねた。
朝になるとパンを焼き、家族の朝食を作る。亮臣は香りを楽しみながら、売れ残った分を見ると笑った。
「主婦の店ごっこは赤字だろ。小麦粉だって俺の給料だ。誰のおかげで飯が食えてるんだ」
佐和花は、毎月の材料費を自分の売上から払っていると言わなかった。
彼女は深夜限定の予約制パン店を始めていた。卵や乳製品を使わない生地、嚥下しやすい柔らかなパン、長期保存できる防災用パン。病院や保育園から口コミで注文が広がった。
一年後、亮臣が営業を担当するホテルチェーンで、朝食パンの仕入れ先を決める試食会が開かれた。
料理長が最高点を付けた工房の代表は佐和花だった。
「遠野井ベーカリーと、全四十ホテルの年間契約を結びます」
受注額は二億四千万円。佐和花はすでに郊外の工房を借り、職人十二人を雇っていた。台所で焼いていたのは、新商品の小規模試作だけだった。
亮臣は料理長へ言った。
「妻は趣味で始めた素人です。量産なんて無理です」
工房の生産計画、衛生認証、病院との三年契約が画面へ並ぶ。むしろ亮臣が推薦した業者は、原産地表示に不備があり失格となった。
その夜、佐和花は工房の休憩室に離婚届を置いた。
「家でパンを焼けなくなったら、困るのは君だ。子どもも父親の収入が必要だろ」
佐和花は給与明細を渡す。役員報酬は亮臣の倍、利益配当は別。子どもの学費は教育口座へ五年分積み立ててある。
「あなたが食べていたパンは、私の材料費と私の労働でできていたの。あなたが出したのは文句だけ」
亮臣は離婚届を押し戻した。
「一時の成功で家庭を捨てるな」
「家庭を捨てるんじゃない。家庭から、私を毎日値下げする人を外すの」
ホテル本部から正式発注の通知が届き、工房の大型オーブンが午前零時に点火された。
最初の四十ホテル分の生地が膨らみ始めた瞬間、亮臣が赤字と笑った店は全国へ朝食を届け、彼の朝だけが焼きたてのないものになると決まった。