午後六時の赤い靴

朱里は赤い靴を、三回引っ越しても捨てられなかった。細いヒール、尖った爪先。試着室では似合ったのに、箱から出すたび「今日は違う」と思う。二十六歳の誕生日に、自分で自分へ買ったものだった。店員は「普段使いできますよ」と言ったが、朱里の普段には赤を置く場所がなかった。

出版社の営業部では歩きやすい黒、休日は白いスニーカー。赤には、デートか祝賀会か、自分が堂々としていい予定が必要だった。予定がない日は、色まで控えめにしておくべきだと、誰に言われたわけでもなく決めていた。

隣室のエレナはルーマニアから来た靴職人で、近所の工房に勤めている。宅配箱を取り違えた夜、朱里の玄関に開いた赤い箱を見つけた。

「壊れていますか?」

「いいえ。履く機会がなくて」

エレナは片方を持ち上げ、靴底を確かめた。

「靴が予定を選びますか?」

朱里が意味を聞く前に、彼女は箱の蓋へ鉛筆で書いた。

〈午後六時、トイレットペーパーを買う〉

「明日、この予定なら空いています」

冗談らしくも、命令らしくもない声だった。

翌日、十七時五十八分。朱里は会社の化粧室で赤い靴に履き替えた。足を入れると、買った日の革の硬さがまだ残っている。かかとには一度も外を歩いていない靴だけの白さがあった。鏡の前を後輩が通り、「今日、何かあるんですか」と聞く。

「トイレットペーパーを買う」

言ってから二人で笑った。けれど朱里は黒い靴へ戻さなかった。

十八時、駅前のドラッグストアへ入る。床はつるつるで、赤い爪先だけがやけに目立つ。日用品の棚で十二ロール入りを持つと、華やかな靴との組み合わせが可笑しかった。

レジへ向かう途中、アクセサリー店のガラスに全身が映った。何かを祝う人には見えない。疲れた顔で大きな紙袋を抱えている。それでも赤は、予定を尋ねず足元にあった。

朱里は立ち止まらず、自動ドアを抜けた。舗道にヒールの音が一つ鳴る。

帰宅への最短路は右だったが、彼女は赤い靴で歩いてみたかった川沿いへ、左足から曲がった。