受験の日の味噌汁
敬悟は、茉緒が試験会場から戻るまで、何も特別なことをしないと決めていた。赤飯を炊けば結果を先取りするようだし、好物を並べれば緊張を持ち帰らせてしまう。だからいつもの豆腐と若布の味噌汁を作った。
ところが、いつも通りは案外難しい。豆腐を同じ大きさに切ろうとするほど不揃いになり、味噌を量れば多すぎる気がする。敬悟は一度火を止め、ラジオを点けた。陽気な司会者が梅の開花を話している。
午後三時、窓から差す光が食卓の端まで伸びた。茉緒は三時半には戻ると言っていた。敬悟は茶碗を洗い、布巾を替え、玄関の靴を揃えた。どれも今日でなくていい仕事だった。
四時前、扉が開いた。茉緒はマフラーを外しながら、「普通」と言った。
「何が」
「全部。たぶん」
敬悟も「そうか」とだけ答えた。出来を訊かない代わりに、味噌汁を温める。鍋の底で豆腐が小さく揺れた。
二人は早い夕飯を食べた。茉緒は試験の話をせず、隣の席の人が鉛筆を十二本並べていたこと、駅の売店で桜餅が始まっていたことを話した。敬悟は、そちらの話ならいくらでも聞けた。
「味噌汁、今日ちょっと濃い」
「普通だろ」
「普通より濃い」
茉緒は笑い、残りを飲んだ。湯気で眼鏡が曇る。結果の出ないうちから何も始まらず、何も終わらない。ただ寒い外から帰った娘の手に、椀の熱が渡っていく。その普通さを、敬悟はしばらく黙って見ていた。
食後、茉緒は鞄の底から使いかけの消しゴムを出し、机へ置いた。角がすっかり丸い。「これ、しばらく見たくない」と言う。敬悟は笑わず、代わりに桜餅を買いに行くかと訊いた。売り切れているかもしれないし、明日でもいい。それでも二人は上着を着た。玄関を開けると梅の気配を含んだ冷気が入り、濃い味噌の残る口をさっぱりさせた。結果を待つ日はまだ先だが、今夜待つのは売店までの信号だけでよかった。
歩き出すと、茉緒の肩から試験会場の乾いた暖房の匂いがした。敬悟は歩幅を合わせ、何も訊かずに隣を歩いた。