右目だけのノック
霧生杏子は、MVの踊り手が右目だけで合図していることに気づいた。
音響スタジオの閉鎖前夜、最後の機材確認として新曲を一度だけ再生していた。イントロで、映像の少女は白い廊下を歩き、四拍ごとに右目を閉じる。短く二回、長く一回。杏子は片耳の聴力を失ってから、音より口元や瞬きを読む癖があった。
点滅を文字へ変えると、同じ言葉になった。
「聞こえてる」
杏子は思わず「私の声が?」と画面へ返した。
少女のモデルは、このスタジオで録音した後に失踪した踊り手だった。最後に残った連絡は、壁を三回叩く短い音声だけ。経営者は気分の波が激しい子だったと説明し、地下の旧録音室を封鎖した。杏子はその説明を信じきれなかった。少女は録音のたび、右耳のイヤーモニターだけを外し、壁の奥から機械音がすると訴えていたからだ。
Aメロで少女は廊下の右側だけを指した。杏子が右チャンネルを上げると、ベースの下に低い衝撃音がある。映像内の足音ではない。再生中のスタジオの壁が、同じリズムで震えていた。
画面の少女が、今度は耳へ手を当てる。
「聞こえてる」
杏子は音量を上げた。サビの低音が建物へ響く。すると右壁の向こうから、三回、二回、三回と打音が返った。閉鎖図面を開くと、壁の奥には旧防音室がある。扉は改装で塞がれたことになっていたが、電源だけは生きている。
曲の波形には、特定の低音で旧室の非常通話を起動する信号が埋め込まれていた。少女の瞬きは、その周波数を右側へ送る指示だった。
最後のロングトーンで非常回線がつながる。スピーカーのノイズの向こうから、乾いた咳と、人の息がした。失踪から三日。まだ間に合う。
「聞こえてる」
MVの人物が杏子の呼びかけを聞いているという怪異ではなかった。壁の中に閉じ込められた本人が、曲を通して届いた低音を聞き、叩き返していたのだ。
杏子は警察へ通報し、消火斧を持ち上げた。画面の少女は最後に右目を閉じる。現実の壁の向こうでも、同じ拍で一度だけノックが返った。