名前のないレシピ

佐伯沙羅が叔父・寅市を介護した四年間、従兄の豪太と従姉の知世は店の売上だけを気にしていた。寅市には子がなく、三人は亡き兄妹の子として相続人になる立場だった。

寅市は町で三十年続く洋食店の主人だった。片手が動かなくなってからは、沙羅が朝の仕込みをし、昼休みに薬を飲ませ、閉店後に入浴を手伝った。豪太は月に一度レジから現金を持ち出し、知世は店の写真を自分のSNSへ載せて「いずれ私たちが継ぐ」と宣伝した。

寅市が亡くれると、二人は遺産分割協議書を持ってきた。

豪太が店舗と厨房設備、知世が店名と内装、沙羅には「古い料理ノート一冊」。二人は、介護をしただけの年下の従妹へ形見をくれてやるのだから感謝しろと言った。

沙羅は書面を読んだ。

「この内容で、本当にいいんですね」

「レシピなんて今は検索すれば出る。店そのものに価値があるんだ」

三人は、その内容で遺産分割協議書へ署名した。

開店再開の日、豪太は入口に自分の名を掲げた。だが仕入先は肉もソースも納めず、予約客へは営業中止の連絡が届いていた。そこへ、商標管理会社の弁護士と建物の所有者が現れる。

店名、看板の図案、看板料理の製法、全国十一店へ供与しているライセンス権は、寅市個人の「料理ノート」に紐づく知的財産だった。公正証書遺言で、その一切が沙羅へ遺贈されている。親族が沙羅へ渡したノートは、まさに店の価値そのものだった。

一方、豪太が選んだ「店舗と設備」は、残り九年の定期借家契約、厨房機器のリース債務、原状回復義務を含む。店名を使えなくても、毎月の賃料と機器代は払わなければならない。知世が選んだ内装には独立した資産価値がなく、勝手に看板を使えば商標侵害になる。

豪太は協議書を破ろうとした。

「沙羅がだました! そんな説明はなかった!」

「財産目録には全部書いてあります。『料理ノートその他知的財産権一式』を、あなたが赤線で消して私に押しつけました」

沙羅は叔父の白衣を着て、入口の看板を外した。

弁護士が営業停止通知を貼り、家主が豪太へ最初の賃料請求書を渡す。

「厨房はあなたのものです。そこから一皿も売れないというだけで」