塗り重ねた鉄環
留置場の壁は、改修前夜、灰色に塗り直されていた。
施設係の細波伊織は、十三年前に勾留男性が死亡した房へ、最後の検査に入った。公式にはシーツを鉄格子へ掛けた自殺。だが遺族が撮った当時の写真では、首の痕が低すぎるとして再調査を求め続けている。
立会人は、現在の留置管理課長・伏木田剛。死亡時の夜勤主任だった。
伊織は壁面探査機を当てた。床から七十センチの位置で金属反応が鳴る。塗膜を傷つけないよう照明を斜めにすると、円形の盛り上がりが見えた。
「鉄環が埋められています」
「配管の留め具だ」
「図面にありません」
十三年前の検視写真。男性の手首には、細い円弧状の圧迫痕が二つあった。伏木田は「暴れた際の手錠痕」と説明した。しかし鉄環の高さなら、腕を背中側へ引き、そこへ固定できる。
「取り調べの代わりに、ここで拘束したんですね」
伏木田は房の扉を閉めた。
「薬物の売人だった。子どもに売った相手の名前を吐かせる必要があった」
「死なせた」
「心臓が弱かった。誰も殺すつもりはない」
「自殺に見せたのは」
「署長命令だ。今の警察学校長だよ。公になれば、留置場で得た供述が何百件も争われる。凶悪犯が外へ出る」
伊織は壁の塗膜から剥がれかけた小片を採取容器へ落とした。下層には、古い血液らしい褐色が透けている。塗料の層を数えれば、死亡翌朝に最初の上塗りがされたことまで分かった。
伏木田が容器を取り上げようとした。
「改修検査に証拠採取の権限はない。お前がやっているのは違法だ」
その通りだった。正式な令状も、再捜査命令もない。だが明朝には壁ごと撤去される。
伊織は胸のポケットから、施設不具合の緊急停止札を出した。これを貼れば工事は止まり、理由は本部施設課と監察へ同時通知される。虚偽なら懲戒。真実でも、留置管理部門全体を敵に回す。
伏木田は「札を戻せ」と言った。
伊織は鉄環の位置へ赤い停止札を貼り、採取容器をその真下の床に置いた。最後に自分の認証印を、塗り重ねられた壁へ押しつけた。