塩を足す前に
笠松磐は、料理教室へ来るなり講師の鍋に塩を入れた。
「味が寝てる。こうやって起こすんだ」
柚木渉は火を止め、鍋を交換した。参加者十人分のスープは、まだ味見の前だった。
「衛生上、共用の計量スプーンを直接戻さないでください」
「俺は《磐亭》のオーナーだぞ。素人向け教室の先生に料理を教わる気はない」
笠松が参加した目的は、市の食文化祭に出す新メニューの下見だった。地域の店が一品ずつ屋台を出し、最優秀店には駅前広場の常設区画が与えられる。彼は受付で初心者用の料金しか払わず、「宣伝してやるのだから材料費は返せ」とも言っていた。
「今年はうちで決まりだ。審査員なんて、肩書に弱い連中だからな」
参加者たちは黙々と玉ねぎを刻んだ。渉だけが「包丁は前へ滑らせるように」と、いつもの調子で説明を続ける。切り方に困る高齢の参加者には、滑り止めをそっと敷いた。
笠松は隣の女性の皿を勝手に味見し、「主婦の夕飯だ」と笑った。若い男性の盛りつけには「写真映えしか考えていない」と言い、自分の皿には教室の高価な香草を全部載せた。
試食の時間、渉は一皿ずつ感想を伝えた。うまく切れなかった人には火入れの工夫を、薄味になった人には香りの足し方を伝えた。笠松の料理には、「塩味が素材を覆っています」とだけ言う。
「だから素人なんだ。濃い味は客を呼ぶ。祭りで行列を見せてやるよ」
笠松は申込書をカウンターへ置いた。締切は今日で、教室が受付窓口を兼ねている。
「推薦欄も書いておけ。講師なら権限くらいあるだろ」
渉は申込書を受け取り、裏面を開いた。
「推薦ではなく、事前行動審査の記録欄です」
「何の話だ」
参加者たちが、順に名札を裏返した。衛生管理、地域協働、接客、若手育成。食文化祭の審査項目が、それぞれの肩書の下に印刷されている。
今年から、審査は料理だけでなく、抜き打ちの共同調理で行われていた。
最後に渉が名札を返す。
《食文化祭 審査委員長》
彼は笠松の申込書へ赤い印を押した。
「事前審査、不合格です」