壁穴の白いパテ
青砥純弥が不破伊作の古いボクシングジムへ戻ったのは、住む場所を失ったからではない。少なくとも、本人はそう言い張った。
「壁、直す約束だった」
「八年前の穴を今さらか」
穴は純弥が開けた。全国予選の決勝、セコンドだった伊作がタオルを投げた夜だ。純弥はまだ立てると思っていた。医師は、あと一発受ければ視力を失ったかもしれないと言った。それでも純弥は、夢を奪われた方だけを信じた。
ジムは月末で閉まる。伊作は奥の事務室を住居にしており、純弥は離婚届を出して荷物を車へ積んだままだった。
二人は穴の周囲を四角く切り、補修板を当てた。純弥が板を押さえ、伊作がねじを打つ。電動ドライバーの音が止むたび、通りを走る車の音が聞こえた。
「タオル、早かったと思うか」
「今も思う」
「そうか」
伊作はパテを練り、純弥へヘラを渡した。白い泥を傷へ押し込む。厚く盛ると乾いた後に割れると言われ、純弥は何度も削った。過去を埋めるには薄すぎるが、壁にはそれでよかった。
乾燥を待つ間、二人はリング脇でカップ麺を食べた。伊作は純弥の分だけ卵を落としていた。現役時代、減量が終わるたびそうした。純弥は何も言わず、黄身を潰した。左目の端には今も小さな光の欠けがあり、疲れると見えにくくなる。それを伊作に知られたくなくて、純弥は壁側へ座った。
二度目の塗りを終えると、穴の場所は分からなくなった。ただし光の角度によっては、四角い跡が残る。
「閉めるのに、直す意味あったか」
「住む場所は閉めない」
伊作は事務室の隣にある物置を開けた。段ボールが片づけられ、折り畳みベッドと新しい枕が置かれていた。壁には純弥の古いローブが掛かっている。
「一晩だけだ」
「パテが乾くまでな」
純弥が車へ荷物を取りに行くと、伊作は入口の鍵をカウンターへ置いた。鍵札には「選手」と書かれていた文字を消し、「奥」と書き直してある。
ジムの看板は外されたままだった。純弥は車を道路脇ではなく、建物の裏の、かつて選手用だった駐車枠へ入れた。