声は婚約の担保ではない

歌姫セレネは婚約式で声を失った。宮廷楽長オルフェンに請われ、永遠の愛の証として契約水晶へ一節歌った瞬間、歌声の所有権が彼へ移ったのだ。彼はその声で名声を得ると、「歌えない妻は不要だ」と婚約を解いた。

声のないまま病床で息を引き取ったはずが、セレネの耳に調律音が戻る。

銀の音叉。透明な契約水晶。オルフェンが前と同じ笑みで囁いた。

「永遠の証に、一節だけ」

一度目は恋歌を歌った。今度は音叉を受け取り、水晶ではなく彼の婚約指輪へ軽く当てる。

澄んだ音が鳴った。

「歌いません。まず、この契約を読み上げていただきます」

「祝いの席で細則など――」

「音楽家なら、見えない音も聞き分けられるでしょう?」

セレネがもう一度指輪を鳴らすと、水晶に封じられた文字が声となって広間へ響いた。

《契約者セレネの発声、音域、歌唱魔力および将来生み出される全楽曲を、受益者オルフェンへ永久譲渡する》

祝福の客たちが息をのむ。オルフェンは水晶を布で覆おうとしたが、セレネはその手を払った。

「愛の証なら、なぜ私だけが失うのです」

彼は声を荒らげた。

「君の才能は私が管理してこそ価値が出る!」

前の人生では十年かけても聞けなかった本音が、たった一分で転がり出た。

王立歌劇院の総監督が席を立つ。

「他者の声を奪う契約は禁制だ。オルフェンの楽長資格を停止する」

水晶の表面にあったセレネの名が消え、代わりに青い文字が浮かぶ。

《歌唱権:本人保有》

前回はこの瞬間、喉が焼けるように痛み、音が消えた。今回は、息を吸うだけで胸の奥に豊かな響きが満ちている。

オルフェンはなおも「私が育てた声だ」と叫んだ。総監督は冷たく、歌劇院に残る初回審査の録音を再生する。出会う前から完成していたセレネの歌声が、彼の嘘を一息で打ち消した。

セレネは誓いの歌ではなく、短い一音だけを放った。天井の硝子が震え、誰かが拍手を始める。ひとつ、ふたつ、やがて広間全体へ広がった。

彼女のためだけに鳴る拍手を聞いたのは、二度の人生で初めてだった。