声を持たぬ旗手

笹間市兵衛は、喉を斬られてから旗の返事を覚えた。

一度振れば「進め」、二度なら「待て」、三度なら「退け」。旗大将の大蔵兵庫は、どんな騒音の中でも市兵衛の旗だけを見て命令を出した。

その兵庫が、夕刻に鉄砲玉を受けて死んだ。

死は伏せられた。城外の敵は、兵庫が生きている限り正面門を攻めない。三度退けと見せて追撃を誘い、側面から斬られたことが二度あるからだ。

侍大将は市兵衛へ言った。

「夜半、兵庫の具足を櫓に座らせる。おまえは旗で返事をしろ」

「……」

声の出ない市兵衛は頷いた。命令へ異を唱えない忠臣だと人は言う。実際には、言えないだけだった。

「敵は間者を寄越す。合言葉を問われても答えるな」

答えられない男を選んだのは、そのためだった。

夜半、兵庫の死体が櫓へ運ばれた。背に柱を入れ、兜の緒を顎へ縫いつける。月明かりでは、生者と死者の違いは旗ほど明瞭ではない。

堀の外から敵の使者が叫んだ。

「大蔵兵庫。明朝、東門を開くなら白灯を一つ出せ」

侍大将が囁く。

「旗を二度。待つと答えろ」

市兵衛は旗を一度だけ振った。

侍大将の手が刀へ伸びる。進め、の合図だった。

敵使が笑った。

「やはり兵庫だ。性急な男よ」

足音が遠ざかる。

「なぜ一度にした」

市兵衛は櫓下の泥へ指で書いた。敵は二度を知っている。

兵庫と市兵衛しか知らぬ旗の符丁が、漏れていた。城内に間者がいる。二度振れば、兵庫の死を隠す芝居まで読まれていると認めることになる。一度なら、兵庫が符丁を変えたように見える。

侍大将は泥文字を見て、刀から手を離した。

夜明け直前、敵軍が東門前へ集まった。市兵衛の一振りを、兵庫の出撃予告と読んだのだ。だが東門の内側には兵はいない。主力は西の小門から城外へ出て、敵の背後へ回っている。

櫓の兵庫は、朝露を兜に溜めたまま動かない。

敵の大筒がこちらへ向く。市兵衛は旗を高く掲げ、死体の横で立った。大筒が火を吐けば、櫓ごと消える。

西の丘に小さな赤旗が上がった。回り込み完了の合図だった。

侍大将が叫んだ。

「東門を開けろ。旗を三度振れ」

市兵衛の旗が、初めて退却を命じるように大きく翻った。