夏のホットコーヒー
気温三十六度の午後、賢吾はホットコーヒーを注文した。
喫茶「梢」の店員、璃々子は一度だけ聞き返したが、すぐに厚いカップを温め始めた。店の冷房は古く、窓際まで冷気が届かない。外では蝉が、空気そのものを震わせている。
賢吾がここでホットを飲むのは、祖父の真似だった。祖父は「暑い日に熱いものを飲むと、身体が季節と喧嘩しない」と言った。理屈はよく分からない。
今年の春、祖父の家を片づけた。湯呑みも将棋盤も処分できたのに、欠けたコーヒーカップだけ持ち帰った。家で淹れてみても、祖父が飲んでいた匂いにはならなかった。
璃々子がカップを置く。表面から立つ湯気は、冷房の風を受けて横へ流れた。
「暑そうですね」
「自分でもそう思います」
一口飲むと、額に汗が浮いた。苦い。けれど焦げた木のような香りの奥に、わずかな酸味がある。
「豆、何ですか」
「今日はマンデリンです。前の店主が夏に好きだったので」
前の店主とは、璃々子の父で、祖父の将棋仲間だったらしい。賢吾が祖父の名を告げると、彼女は「ああ」と笑った。
「いつも角の席で、負けると砂糖を増やす人」
知らない祖父だった。賢吾は角砂糖を一つ入れた。溶けるまでの間、璃々子から将棋の勝敗や、二人が冷房の設定温度で揉めた話を聞いた。
店を出ると、熱気が濡れたシャツへまとわりついた。それでも来たときほど不快ではない。
賢吾は空を見上げ、祖父の口癖を小さく繰り返した。身体が季節と喧嘩しない。意味はまだ分からないが、喉から胸へ落ちた熱だけは、しばらく消えそうになかった。
翌朝、賢吾は持ち帰った欠けたカップへ同じ豆を淹れた。店の味にはならなかったが、湯気の向こうで祖父が砂糖を増やす姿は想像できた。窓の外では早くも蝉が鳴いている。賢吾は角砂糖を一つ落とし、溶ける音のしない音を聞いた。
カップの欠けへ唇が触れ、昔の夏が一瞬だけ、苦みの奥から戻ってきた。