夜勤表の赤い線
采女千尋は、最後の車椅子が送迎車へ乗るまで、退職届を出さなかった。
壬生修一が経営する介護施設では、夜勤一人で二つの階を見させられていた。壬生は人員不足を「家族なら助け合える」と言い換え、会議では現場の訴えを笑った。
千尋たちは三か月かけて、入居者と家族の同意を取り、近隣施設への転居を手伝った。薬、衣類、好きな音楽、眠れない時間。必要な情報は一人ずつ丁寧に引き継いだ。転居を望まない人には家族とケアマネジャーを交えた別案を用意し、誰一人、抗議の道具にはしなかった。壬生が使い捨てにした職員ほど、最後まで入居者を置き去りにしなかった。
全員が安全な場所へ移った午後、職員二十九人が玄関に並んだ。
「辞めるなら勝手にしろ。入居者を置いて逃げたと訴えてやる」
壬生が怒鳴る。
千尋は空になった食堂を指した。
「置いていません。あなた以外は、もう全員次の場所にいます」
駐車場には、転居先の施設長たちがいた。家族会の代表が、壬生へ契約解除と返還請求の通知を渡す。玄関には、職員へ感謝する手紙が二十九通置かれていた。会社宛てのものは一通もなかった。前払い金の使途が説明されず、夜勤体制も届出と異なっていた。
間もなく、県の指導監査と労働基準監督署の臨検が同時に始まった。職員配置表の赤い線は、実際には勤務していない人の名前を足した跡だった。千尋が保存した夜間センサーの履歴と照合され、虚偽はその場で崩れた。
壬生は銀行へ電話したが、入居率が融資条件を下回り、指定取消しの手続きまで始まったため、運転資金は出せないと告げられた。返還金と未払い残業代だけで、会社の預金は尽きる。
「千尋、お前が戻れば、まだ再開できる」
「私が戻る場所は、入居者のいるところです」
千尋は新しい施設の職員証を首に掛けた。他の職員も、それぞれの転居先から採用通知を受けている。
県職員が正面玄関へ事業停止の告示を貼り、最後の送迎車が角を曲がった。
夜勤表から人を消し続けた施設は、その瞬間、本当に誰もいない建物になった。