女将より先に帰る人
修学旅行の宿に着くと、東條莉帆は狐塚奈津芽へ自分の鞄を渡した。
「こういう旅館、家で手伝ってるんでしょ。運ぶの慣れてそう」
奈津芽の家は山奥だと聞いていた。制服のコートも姉のお下がりで、昼食はいつも握り飯。莉帆は“山の貧乏宿”と決めつけていた。
奈津芽は鞄を受け取らなかった。
「仲居さんに頼んで」
「偉そう。宿代も学校持ちだから来られたくせに」
玄関へ大女将が現れた。九十近いはずなのに背筋が伸びている。
「奈津芽、お帰り」
狐塚家は、この旅館だけでなく、周囲の温泉源、森林、スキー場、ロープウェイを所有する観光企業の創業家だった。奈津芽は大女将のひ孫で、現社長の娘。山の家は粗末なのではなく、江戸時代から残る母屋を修繕しながら使っていた。暖房も必要な部屋だけに入れ、浮いた費用を登山道の救護所と無料送迎バスへ回している。旅館の利益で山を買い占めるのではなく、伐採を防ぐために所有し、地元へ開放するのが狐塚家の方針だった。
旅館の支配人が教師へ説明する。
「今回の宿泊費と交通費は、狐塚観光財団から学校へ寄付されています。奈津芽様の提案で、家庭の事情にかかわらず全員参加できるようにしました」
莉帆の手から鞄が落ちた。
「だったら、もっといい部屋に泊まるんでしょ」
奈津芽は班の名簿を見せた。皆と同じ六人部屋だった。
「同じ旅行に来たんだから、同じ部屋でいいよ」
夜、雪が強まり、山道が通行止めになった。奈津芽は支配人と除雪班の地図を確認し、翌朝の安全な出発時刻を提案した。幼いころから山の管理を学んでいたため、判断は教師より早かった。
翌朝、県の観光局長が旅館へ来て、狐塚家の無料登山道整備と森林保全を表彰した。年間の寄付額は、莉帆の父が経営する旅行代理店の売上を超えていた。
局長が奈津芽へ次期観光計画の委員証を渡す。
玄関で大女将が一礼し、全従業員が「次期当主」と呼んだ瞬間、莉帆が荷物持ちにしようとした少女こそ、この山で誰より先に迎えられる人だと確定した。