姿の消える侍女と輪郭香
薬屋《白線堂》の扉は開いたのに、誰も入ってこなかった。
店主ケルンが首を傾げると、床板が一枚ずつ軋み、やがて空中から女の声がした。
「ここに、います」
声の主は侍女ユフィア。手も顔も服も見えない。王宮で十年働いた末、主人から「目障りだから消えろ」と呪われ、本当に姿を失ったという。食事も寝台も名簿から消され、昨日は同僚が彼女の体を通り抜けるように扉を閉めた。
「姿がないので、退職届へ本人確認の印をもらえません。給金も、私が存在しないから払えないと」
「今日中に署名が必要?」
「日没までです。それを過ぎれば、無断失踪として捕まります」
ケルンは香水棚から、乳白色の細瓶を一つ選んだ。
「輪郭香。見えなくなったものへ、新しい輪郭を与えます」
「呪いを解く薬ではないのですか」
「解けません。けれど、呪った相手が『あなたを見た』と認めれば、呪いは矛盾して崩れます」
空中の指らしいものが瓶を受け取った。
一吹きすると、甘い花ではなく、洗いたての制服と石鹸の匂いが広がる。香りに沿って白い線が浮かび、肩、腕、指先、頬の形を描いた。中身は透明のままなのに、そこに一人の女性が立っていると誰にでも分かる。
ケルンは鏡を向けた。
白い輪郭の顔が、両手で口元を覆う。
「私が、いる」
「日没までは消えません。王宮で一番人の多い場所を通ってください」
「隠れて行かなくていい?」
「見せに行く薬ですから」
ユフィアは財布を探り、何もないことに気づいた。
給金を止められているのだ。
「代金は、戻ってからで」
「逃げたら?」
「姿のない客を追うのは面倒です。信用します」
日没前、扉が再び開いた。
今度は、輪郭だけでなく栗色の髪も、涙で赤くなった顔も見える。ユフィアは十年分の給金袋から銀貨を取り、きっちり代金を置いた。
「広間を歩きました。あの人は皆の前で『ユフィアを捕まえろ』と言った。私を見たと、自分で認めました」
胸元には、受理印のある退職証が輝いている。
「輪郭香を、もう一本。次は好きな服で町を歩くために」
彼女が軽い足取りで去った直後、扉の鈴が鳴った。
白い輪郭だけの手が、外からそっと戸を押していた。