密偵の本名が並ぶ支払簿
王都中央銀行の窓口で、出納官は大声で三つの名を読み上げた。
「セドリク・アム、ナーヴァ・ロウ、ビアン・トレス。王室諜報局より特別勤務手当!」
待合室の男が新聞を畳んだ。三人の名は、敵国へ潜入している密偵の本名だった。
諜報局長は窓口へ飛びついた。
「声を落とせ! その名をどこで見た」
「支払簿です。今月から通常の給与口座へ振り込めと」
昨日まで経理担当ティセラは、密偵ごとに番号口座を作り、任務手当を複数の商取引へ分けて送っていた。金の流れから正体を読まれないためだ。局長はそれを「帳簿遊び」と呼び、剣を持たない彼女を国境外へ追放した。
正午には、敵国の伝書鳩が三羽飛んだ。夕刻、潜入先からの連絡晶が一つずつ暗くなる。最初の失敗で、三年かけた網が切れた。
最後に一つだけ届いた暗号は、『銀行で名を呼ばれた』の七文字だった。その後、敵国の新聞に三人の似顔絵が載り、国境の検問所が閉じた。
局長は支払簿を燃やしたが遅かった。銀行には複写、王室会計院には月次報告が残る。ティセラが番号口座を使っていたのは、帳簿を隠すためではなく、帳簿が正しく保存されても人が死なないようにするためだった。
一方ティセラは、自由都市の治安局で身代金取引の資金経路を組み直していた。番号化した出納によって囮捜査官の名は守られ、誘拐団の口座だけが凍結された。
救出された囮捜査官は、家族にも任務を知られないまま帰宅できた。治安局では初めて、秘密任務の成功報酬が翌朝きちんと支払われた。ティセラの帳簿は、名を隠しながら功績だけを取りこぼさなかった。
治安長官は、救出された商人の家族の前で彼女へ感謝状を渡す。
「姿を隠す者を守るのは、影ではなく、痕跡を制御する者だ」
夜、王室諜報局の暗号通信が届いた。
『局長命令。全処分を取り消す。直ちに帰還し、支払記録を消去せよ』
ティセラは通信紙を裏返し、新しい局の番号印を押した。
「記録は消せても、失われた信用は戻りません。追放命令をもって私の契約は終了しています」