小麦ではなく蕎麦を
学者イリスが領都を追われたのは、領主の命令に「無理です」と答えたからだ。
火山灰の土地へ小麦を植えろと言われ、土に合わないと説明した。すると反抗的だとされ、実験用だった捨て農地へ放り出された。
初日、イリスは畑の端へ木椀を置いた。
紫キャベツを煮出した液に土を混ぜる。液は赤く変わった。酸の強い土だ。村の監督官は鼻で笑った。
「色水遊びか。領主様は小麦畑を望んでおられる」
「この色では、小麦は根を傷めます」
「命令は命令だ」
イリスは小麦袋へ手を伸ばさず、持ってきた小さな蕎麦の種袋を開けた。灰の土へ浅い筋を一本つけ、種をぱらりと落とす。今日まくのは、その一列だけだった。
蕎麦の種は、小麦より小さく頼りなく見えた。イリスは風に飛ばされないよう指先で土へ押し込み、火山灰を薄くかぶせる。学院の温室なら温度も水量も器械が決めたが、ここでは雲の厚さと土の湿りを自分で読む。赤く染まった試験液は捨てず、畝の札へ一滴つけた。三か月後に結果が出たとき、今日の判断を誰にも書き換えさせないためだった。
監督官が制止しようとしたとき、王都からの布告が届いた。
《辺境各地は小麦の作付面積を増やし、三か月後に納めよ》
監督官は勝ち誇った。
「逆らえば土地を取り上げるぞ」
イリスは布告の裏へ、先ほどの試験結果と日付を書いた。
「では三か月後、枯れた小麦を納めた責任者の欄に、あなたの署名を」
差し出された羽根ペンを前に、監督官の手が止まった。
「それとも、この一列だけは私の判断に任せますか」
長い沈黙の末、監督官は布告を畳んで持ち帰った。
イリスは小屋へ戻り、旅のために焼いてきた蕎麦粉の薄焼きを鉄板で温めた。端がぱりっと反り、香ばしい匂いが立つ。山羊乳の白いチーズを包み、熱いうちにかじった。
窓の外には、灰色の地面へ走る一本の種筋。
作物を土地に従わせるのではない。土地の声を聞いて、作物を選ぶ。
それが許されるだけで、捨てられた農地は、誰より正直な研究室になった。