岬行きの生姜うどん
夜のフェリーで、千帆は自動販売機の水しか買っていなかった。実家へ帰るのは一年ぶりで、母とは昨夜も電話で喧嘩した。船が港を離れて間もなく、船員の舟木が生姜うどんを運んできた。
「注文していません」
「前払いです」とだけ答えて、舟木は甲板へ戻った。
食堂の芹沢が気を利かせたのか、向かいに座る吉良が顔色の悪さを見かねたのか、それとも母なのか。千帆は三人を疑った。
厨房票の宛名は、子どもの頃だけ呼ばれた「ちぃちゃん」。代金の小袋は、母が薬を渡すときのように角を内側へ折ってある。天ぷらはなく、生姜だけが通常の倍だった。船酔いのときに千帆が食べられる、唯一の組み合わせだ。
観念して母へ電話すると、一度目の呼び出しで出た。
「船会社に電話したの?」
「席まで運べるって、ホームページに書いてあったから」
母は、帰省を急かしたことを謝りたかった。父の検査結果が心配で、「帰ってきて」が命令のようになった。けれど先に謝れば、千帆が無理をしてでも今夜の船に乗ると分かっていた。
「もう乗ってるけど」
「だから、うどんだけ先に謝らせた」
芹沢は電話注文を受け、舟木は席番号を確認しただけだった。吉良は無関係で、むしろ酔い止めの飴を一つ差し出してくれた。
父の検査は深刻ではないと聞いていた。それでも母の短い言葉は不安を隠すほど硬くなり、千帆も『仕事がある』を盾にした。帰るか帰らないかの話ばかりで、怖いの一言をどちらも言えなかった。母は電話なら喧嘩になると知り、食べ方まで覚えている料理へ気持ちを預けた。千帆は、それが謝罪であり、弱音でもあると分かった。
船が揺れるたび、丼の出汁もわずかに傾いた。こぼれないよう両手で支える姿勢は、母の不安を受け止めることに少し似ていた。全部を理解できなくても、まず落とさず運べばいい。
千帆は湯気で曇った窓の向こうに、遠ざかる街の灯を見た。出汁を飲むと、生姜が舌を刺し、そのあとで身体の中心が温まる。
「着いたら、ちゃんと話す」
「うん。麺、のびるよ」