島を売らない所有者

水無瀬原珠央弥は、海辺の研究所で働いていた。

給与は高くなく、住まいも島の古い管理小屋。婚約者の六条院和乃佳は、いつか本土へ移る約束を何度も求めた。

そして白鷺谷槙斗と出会うと、婚約指輪を返した。

「槙斗さんは海運会社の後継者で、世界中に船を持っているの。島の魚を数える生活には戻れない」

槙斗は港に停めた大型ヨットを指した。

「珠央弥君も、土地を売って都会へ出ればいい。あの島なら別荘開発に使ってあげるよ」

珠央弥は静かに答えた。

「あの島は売らない」

一か月後、港で洋上風力発電事業の調印式が開かれた。槙斗は父の会社が主幹になると和乃佳へ話し、夫婦同然に来賓席へ座った。

壇上へ上がった事業代表は珠央弥だった。

島と周辺海域の利用権は、水無瀬原家の環境信託が保有していた。珠央弥は単なる研究員ではなく、海洋エネルギー企業の創業者で筆頭株主。管理小屋で潮流と鳥類を調べ、自然を壊さない発電方式を十年かけて完成させたのだ。豪邸を建てなかったのは、渡り鳥の飛行経路と漁師の作業場を一坪も奪わないためだった。島民の電気代も、彼の会社が赤字分を負担していた。

事業規模は一兆円。収益の一部は漁業と島の診療所へ戻される。

槙斗が立ち上がる。

「当社との輸送契約は決まっているはずです」

監査役が首を振った。

白鷺谷家の会社は後継者争いで債務超過になり、槙斗自身は株式を一株も持たない支店長の息子だった。港のヨットも顧客から預かった船で、和乃佳を乗せたことが問題となり、槙斗は解雇された。

和乃佳は珠央弥の前へ来た。

「私は島が嫌だっただけ。あなた自身を嫌いになったわけじゃない」

「島を守る僕を切り離したら、僕ではなくなるよ」

珠央弥は調印書へ署名した。島は売却せず、環境保護区として永久信託される条項が入っている。

一兆円事業と島の保全が同時に確定した瞬間、和乃佳が捨てた管理小屋の住人こそ海域の所有者で、選んだ船持ちには自分の船すらないと知れ渡った。