帆立に醤油を落とす
榊原駿は、明日から葬祭会社の研修に入る。昨日までは結婚式場で、新郎新婦の入場を合図する仕事をしていた。
業績悪化で式場が閉鎖され、同じ接客経験を生かせる求人として葬祭会社を紹介された。面接では「人生の節目に寄り添いたい」と答えた。間違いではない。けれど友人に話すと、「白から黒か。振り幅すごいな」と笑われた。その軽口が、ずっと耳に残っている。
式場では、予定が押せば料理の順番を変え、泣きすぎた新婦には入場を少し待ってもらえた。葬儀にも進行はあるが、待てば戻る人はいない。その違いを考えると、胸の奥が冷えた。
式場を片づけた日、駿は白い手袋を一双だけ持ち帰った。明日の研修鞄へ入れようとして、やめた。祝いの場で使ったものを持っていくのは不謹慎かもしれない。置いていけば、自分の五年間まで空になる気もした。
駿は、悲しむ家族の前で言葉を間違える自分を想像した。結婚式なら笑顔で取り戻せる失敗も、葬儀では戻らない。
研修資料には、宗派別の作法と進行表が細かく並んでいた。電話を受ける最初の言葉まで定められている。その整然さに安心する一方、用紙の空欄へ人の死を収めることが怖かった。今夜中に全部覚えようとして、途中で頭に入らなくなった。
居酒屋「白波」の店主は、殻つき帆立を網へ置いた。殻の中で汁がふつふつと泡立ち、貝柱が縮むたびに小さく鳴る。海の匂いを含んだ湯気が上がり、最後に落とした醤油が焦げて、甘く濃い香りへ変わった。
「こういうの、焼きすぎたら終わりですよね」
「火を見てれば分かる」
「人は、見ても分からないです」
「じゃあ聞け」
店主は殻を皿へ移した。
駿は研修用のノートを開き、最初のページに書いていた挨拶文を消した。代わりに一行だけ書く。
『どんな方だったか、教えてください』
実際の担当を任されるのは先だし、遺族が話したくないこともあるだろう。作法を覚えなくていいわけでもない。それでも進行表を埋める前に、故人を一人の人として聞く。その一問を忘れないようにする。
帆立を噛むと、弾力のあとに甘い汁が出た。焦がし醤油の苦い香りが鼻へ抜け、殻の底には、触れればまだ熱い汁が少し残っていた。