帳尻合わせ
早月景久は二十八歳の会計コンサルタントだ。赤字続きの温泉宿を調査するため、白貝村の「松籠館」に入った。
売上帳は乱雑なのに、宿帳だけは一頁十二名で揃っている。明治の開業以来、雨季も戦時中も必ず十二。最後の頁だけ十一名で終わっていた。
支配人との面談メモ。
景久「空欄はキャンセルですか」
支配人「帳面の人数と、泊まった人数を合わせる習わしです」
景久「注意書きがありますね」
支配人:《空欄を埋めるため、架空の客名を書いてはいけない》
景久は収支モデルを作るため、満室時の数字が必要だった。コピーに書くつもりが、疲れて原本へ「薄葉弥市」と記した。一度だけの仮名だった。
その瞬間、二階で布団を敷く音がした。十一室しかないのに、廊下の突き当たりへ十二番の札が増えている。景久は扉を開けなかった。
翌朝、宿泊料が一人分多く入金されていた。名義は薄葉弥市。支配人は「これで帳尻が合いました」と笑った。
帰社後、景久の会計ソフトにも薄葉弥市が現れた。社員番号、口座、顔写真まで揃い、担当案件はすべて景久と同じ。削除すると監査エラーになる。
月末、給与明細が届かなかった。人事へ問い合わせると、「早月さんは外部協力者なので給与対象外です」と言われた。代わりに薄葉弥市へ、景久の口座から満額が振り込まれている。
翌日から同僚は薄葉弥市へだけ挨拶し、景久には来客用の札を渡した。社内写真では彼の立っていた位置へ山田の社員証が浮かび、顔はピントが合わない。銀行アプリの名義も《薄葉弥市代理・早月景久》へ変わった。松籠館の売上報告には十二人目の長期滞在料が毎日計上され、その費用が景久の給与から正確に差し引かれていた。
深夜、社内チャットに新しいメッセージが来た。
薄葉弥市:空欄だった席、使わせてもらっています。
薄葉弥市:宿帳は十二名で揃いました。
薄葉弥市:次は社員名簿の帳尻を合わせます。
送信者のアイコンには、景久が今日着ているシャツが写っていた。