幽霊役の午前二時
文化祭の劇で幽霊役になった彼は、人前へ出ると声が出なくなった。
普段は教室で一番よく話すのに、舞台へ立つと台詞が消える。
本番前日、演劇部の私たちは最後の練習を終えた。顧問は「今日は休め」と言った。
彼だけが納得していなかった。失敗したまま朝を迎えるほうが、見つかって叱られるより怖いと言った。
夜十一時、学校の裏門で待ち合わせた。
大人には言えない追加練習。
体育館の鍵は、舞台袖の窓から手を伸ばせば内側から開けられる。昼間に確認していた。
暗い体育館へ入り、非常灯だけで舞台へ上がる。
客席には誰もいない。
「これならできる?」
私が聞くと、彼はうなずいた。
最初の台詞。
声は出た。
二つ目で詰まる。
私は客席の一番前へ座り、台本を閉じた。
「私だけ見て」
彼は眉を寄せた。
「観客が増えたら無理」
「明日は千人じゃない。私が千回いると思って」
「怖い」
「失礼」
少し笑ったあと、彼はもう一度始めた。
午前零時。午前一時。
同じ場面を繰り返した。
幽霊が、生前に言えなかった謝罪を伝える場面だった。彼自身も、去年喧嘩したまま転校した友達へ謝れなかったらしい。
「この台詞、あいつに言ってると思うと無理」
「じゃあ、言えば」
「連絡先、変わった」
私はスマートフォンを出した。
共通の友達をたどれば、動画を届けられるかもしれない。
最後の練習を録画した。
彼は台詞を途中で一度止めた。それでも逃げず、最初からやり直さなかった。
「ごめん。遅くなった」
舞台の上で言った。
午前二時。
静かな体育館に、声が最後まで届いた。
文化祭本番、彼は一度も詰まらなかった。
大きな拍手を受け、舞台袖へ戻ると、スマートフォンに返信が来ていた。
『見た。こっちもごめん』
彼は幽霊の白い衣装のまま泣いた。
夜の学校へ忍び込んだことは、顧問にもクラスにも言わなかった。
本番後、体育館の床に小さな泥の跡が残っていた。
それを見るたび、私は午前二時の客席に一人で座り、誰にも届かないはずの台詞が初めて届いた瞬間を思い出す。