幽霊船より当たらない船員
海賊船《黒鯨》で反乱が起きたとき、舵輪の前に残ったのは甲板員ヤシュト一人だった。
船長ベラグナは、沈没船から百年前に拾った男が命令へ逆らうなど許せなかった。
「舵を離せ。次の港は略奪する」
「この先は避難船団の航路です。曲がりません」
船長は捕鯨銃を肩へ載せ、ヤシュトの背中を狙った。鎖つきの銛が飛ぶ。
ヤシュトは両手で舵輪を握ったままだった。銛は外套へ触れる直前、船が大きく傾いたかのように横へ逸れ、反乱旗だけをマストから引きちぎった。
だが海は凪いでいる。船体も一度も揺れていない。
「小細工ごと甲板を吹き飛ばせ!」
ベラグナは船首砲《海割り》を無理やり後方へ旋回させた。巨獣を船ごと粉砕する砲撃なら、舵輪の周囲すべてが射程になる。
轟音と火薬煙が甲板を呑み、帆柱の破片が空へ舞った。
煙が晴れる。
ヤシュトは舵輪を握った同じ姿勢で立っていた。彼の足元から船尾まで一本の無傷な道が残り、そこへ身を伏せた非戦闘員たちも傷ついていない。砲弾は発射後に海面へ曲がり、船の両側へ巨大な水柱を作っていた。
衝撃で船長室の古い航海日誌が開き、甲板へ滑ってきた。百年前の沈没日、その最後の行には『舵手ヤシュト、全員を救命艇へ移すまで持ち場を離れず』とある。反乱に加わった船員たちは、略奪を命じる船長ではなく、今も避難船を守る舵手の背後へ静かに並んだ。船長がもう一度命令しても、砲手は火縄を取らなかった。百年前の幽霊船員より、生きた船長のほうが船を沈めようとしていると、全員が理解したからだ。
ベラグナが異常に気づいたのは、ヤシュトではなく船そのものが攻撃を避けていると分かったときだ。
「百年前、沈没船で何をした」
「最後まで舵を握りました」
ヤシュトは進路を避難船団から外さない。
「船員として死ねなかったので、それ以来、私が守る船には沈む運命が近づけません」
船長は再装填のレバーを蹴った。
だが《海割り》の砲尾は逆流した魔力に耐えられず、鋼の留め具ごと砕けた。