店の中だけの母
木津川藍は、母の手を引いて願いの店へ入った。
入口の札には《店内限り》とある。
母の佐和は、三年前から藍を娘だと分からない。毎週見舞いに行っても、看護師だと思ったり、昔の同級生だと思ったりする。今日は「駅まで送ってくださる?」と言い、病院の廊下を歩き続けた。
帰り道、雨宿りに入ったのがその店だった。
「願いを一つ」と店主が言う。
藍は迷わなかった。
「母に、私を思い出してほしい」
店主が入口の札を指した。
「店の中だけでよければ」
藍がうなずくと、母は瞬きをした。
「藍?」
その一言で、膝から力が抜けそうになった。
「お母さん」
「こんな時間にどうしたの。髪、ずいぶん短くしたのね」
それは十年前に切った髪だった。
二人は店の丸い机に座った。茶も菓子も出なかったが、話すことはいくらでもあった。
父が靴下を裏返したまま洗濯に出したこと。藍が高校時代、家出して公園で蚊に刺されただけで帰ったこと。母が初めて作ったシチューに砂糖を入れたこと。
「私、怒ってばかりだったでしょう」と母が言った。
「うん。だけど、お弁当の卵焼きは毎日甘かった」
「怒ることと甘くすることは別です」
「そういうところ」
「少しは否定しなさい」
二人で笑った。
時計は十一時を指した。病院へ戻らなければならない。
藍は母の手を握った。
「外に出たら、また忘れるの?」
「何を?」
母はもう、少しずつ遠くなっていた。
藍は何度も言おうとした。忘れないで。もう少しだけ。明日もここへ来たい。
けれど願いは一つだった。
戸を開けると、雨はやんでいた。
母は敷居をまたぎ、藍の手を振りほどいた。
「あの、あなた、どなた?」
胸の奥がひどく痛んだ。それでも藍は笑えた。
「娘です」
「まあ。私に娘が?」
「います。毎週会いに来ます。話を聞かずに勝手に髪を切る、困った娘です」
母は警戒しながらも、藍の差し出した腕につかまった。
病院までの道で、母は同じ質問を七回した。
藍は七回とも「娘です」と答えた。
八回目を待っているうち、母がふいに言った。
「あなたの手、藍に似ているわね」
店の外だった。
藍は立ち止まらず、「そうですか」とだけ答えた。