影の半分

波多野瑛士が夜の劇場へ戻ると、舞台の中央に清良が立っていた。

清良は十年前、二人で旗揚げした劇団の主演女優だった。

そして初公演の前夜、急病で亡くなった。

「まだ台詞、覚えてる?」

「そっちこそ」

客席の非常灯が、二人を横から照らした。

瑛士の影は長く伸びている。

清良の足元には、何もなかった。

清良が瑛士の影へ片足を入れた。

「本当のことを一つ言って」

瑛士は肩をすくめた。

「この劇場、来月で閉める」

影が少し広がり、清良の片足の形になった。

もう一つ本当を言うたび、影は清良へ分かれた。

「劇団は五年前に解散した」

腰まで影が伸びた。

「俺は今、結婚式場の司会をしてる」

肩まで届いた。

「似合いそう」

「毎週、知らない夫婦の未来を褒めてる」

清良は笑った。

影の顔だけがまだない。

この劇場を取り壊す前に、管理人から最後の確認を頼まれた。

瑛士は舞台へ立つつもりなどなかった。

初公演を中止した夜から、一度も演じていない。

「あと一つ」

清良が言った。

「本当なら何でも?」

「いちばん隠してるやつ」

瑛士は客席を見た。

空席ばかりだった。

十年前、ここが満員になるはずだった。

「君が死んで、悲しかった」

影は増えない。

「ずっと好きだった」

増えない。

清良が首を傾げる。

「上手になったね、嘘」

瑛士は唇を噛んだ。

悲しかったのは本当だ。好きだったのも本当だ。

だが、いちばん隠してきたことではない。

「ほっとした」

声が舞台に落ちた。

「君は天才だった。俺が書いた台詞を、俺よりわかってた。初公演が成功したら、劇団は君のものになると思ってた」

瑛士は息を吐いた。

「君が死んで、悲しかった。同じくらい、負けなくて済んだと思った。それが怖くて、芝居をやめた」

清良の足元に顔まで影ができた。

二人分の影が並んだ。

「最低」

「知ってる」

「でも、やっと同じ舞台に立った」

清良は瑛士へ手を差し出した。

触れられない手だった。

二人は初公演の最後の場面を演じた。

台詞は驚くほど残っていた。

清良は昔より少し下手で、瑛士は昔より少し上手だった。

夜明け前、最後の台詞を言い終える。

清良の影が先に薄れ、姿も消えた。

瑛士の影だけが残った。

一人分なのに、以前よりまっすぐ立っていた。

翌月、劇場は閉じた。

瑛士は結婚式場の仕事を続けながら、小さな朗読会を始めた。

最初の演目には、十年前に上演できなかった戯曲を選んだ。

主演の欄は空白にしなかった。

自分の名を書いた。