復讐心の返却申請

穂垣千里は、襲われた翌日に復讐心を消された。

加害者が逃亡中だったため、警察は被害者による報復を防ぐ緊急処置を適用した。首の後ろのチップが憎悪と衝動を抑え、千里は事情聴取にも冷静に答えた。

周囲は回復が早いと褒めた。仕事にも二週間で戻り、夜道も歩けた。けれど犯人が逮捕され、法廷で「衝動的だった」と頭を下げても、千里の胸は動かなかった。

検察官は心配した。

「怒りが見えないと、被害の深刻さが裁判員へ伝わりにくいかもしれません」

千里は笑いそうになった。危険だから消した感情を、今度は証明のために見せろという。

彼女は復讐心の返却を申請した。医療AIは却下した。

〈回復後の憎悪再導入は生活機能を損ないます〉

「生活はもう損なわれています」

〈就労、睡眠、食事に異常はありません〉

「腹が立たないことが異常なんです」

怒りがないため、事件の話を途中で遮る上司にも、示談を勧める親戚にも反論できなかった。嫌だという力まで薄くなっていた。

千里は返却訴訟を起こした。復讐する権利ではなく、自分の感情を国家に保管されたままにしない権利を求めた。支援者が集まり、同じ処置を受けた被害者たちが証言した。皆、穏やかな顔で人生を奪われたと語った。

判決の日、裁判所は全面解除を認めなかった。ただし本人の同意により、専門家立ち会いのもとで短時間だけ感情を復元できるとした。

刑事裁判の最終陳述で、千里は三分間の解除を選んだ。

最初の一秒で、喉が裂けるような怒りが戻った。犯人を傷つけたい衝動も確かにあった。同時に、怖かった夜、失った仕事、心配させまいと笑った日々が一つにつながった。

千里は叫ばなかった。拳を握り、震える声で言った。

「私はあなたを殴りたい。だから殴らず、ここで裁いてほしい」

三分後、怒りはまた薄くなった。けれど、もう保管場所を知らない感情ではなかった。

事件後、千里は被害者支援の相談員になった。復讐心を消したい人には止めず、残したい人には危険性を説明する。

「怒りは正義ではありません」と彼女は言う。「でも、正義を求める足になることがあります。切り落とす前に、どこへ歩きたいか決めましょう」