恋人になる前のあなた
宍倉依子の婚約者・叡志は、事故で死んだ。
葬儀の翌日、生命管理会社から連絡が来た。
「予備肉体が完成しています。最終バックアップは六年前です」
六年前、依子と叡志はまだ出会っていない。
二十七歳の体に戻った彼は、大学院を辞めようとしていた頃の記憶までしか持たない。意識を入れれば法的には叡志本人だが、依子を愛した四年間は存在しない。
家族は再生を望んだ。
「また知り合えばいい。あなたなら、もう一度好きにさせられる」
その言葉に、依子は救われ、同時に傷ついた。恋を再現する仕事を、自分だけが背負わされる気がした。
起動室で目を開けた叡志は、見知らぬ依子に怯えた。
彼女は説明を急がなかった。喫茶店へ連れていき、彼が好きだった苦い珈琲を注文した。叡志は砂糖を三本入れた。
「僕、こんなの飲めない」
事故前の彼はブラックしか飲まなかった。それは依子と付き合ってから格好をつけて始めた癖だった。
叡志は、自分が知らない自分の写真を見たがった。二人の旅行、喧嘩、指輪を選ぶ動画。見終えると、彼は泣いた。
「この人は幸せそうだ。でも僕じゃない」
依子は、そうだね、と答えた。
その一言を言うまで、三か月かかった。
家族は彼に以前の仕事と部屋を返そうとした。依子は婚約者として手続きを手伝いながら、婚約の解消届にも署名した。
叡志は遠い町の研究所へ就職した。駅で別れるとき、彼は尋ねた。
「僕を嫌いになった?」
「あなたを知らないの」
「じゃあ、いつか知り合える?」
依子は首を振らず、うなずきもしなかった。
一年後、叡志から写真が届いた。海辺で笑う彼の隣に、知らない女性がいた。
胸は痛んだ。けれど、それは奪われた痛みではなかった。
依子は事故前の叡志の指輪を外し、箱へしまった。
予備肉体は死者を返さなかった。
代わりに、愛した人と同じ始まりを持つ別の人生を、この世へ残した。
依子は彼を取り戻すことをやめた日から、自分の人生を再び未来形で考えられるようになった。