抜かなかった黒い矢
国境戦の野営地へ、腿に黒い矢を刺した兵士が運ばれた。
矢柄は歩くたびに揺れ、傷から血がにじむ。若い従軍治療師が「今すぐ抜け」と命じ、兵士二人が柄をつかんだ。
洗濯係のイズメラが、その手へ濡れ布を叩きつけた。
「抜いたら、今より出ます」
「下働きが戦傷に口を出すな!」
イズメラは前世の救命講習で見た図を思い出し、矢の周囲へ畳んだ布を積んだ。左右から厚みをそろえ、矢柄が動かない高さまで囲む。その外側だけを帯で固定し、矢そのものには触れない。
担架を一度持ち上げる。
さっきまで大きく揺れていた黒い羽根が、今度は微動もしなかった。
百歩先の治療幕まで運ぶ間、傷から落ちた血は三滴。固定前は、立ち上がるだけで布一枚を赤くしていた。
奥から出てきた老外科師は、矢を見て「誰が抜かなかった」と問うた。若い治療師が言い訳を始める前に、イズメラが手を挙げる。
「よく止めた。鏃が血管の栓になっていることがある。ここで抜けば、幕へ入る前に失血していた」
外科師は治療幕の中で矢を処置し、半刻後、兵士は自分の足指を動かした。輸血用の魔石も一つで足りた。通常なら三つ使う重傷だった。
固定後の兵士は担架の揺れに合わせて会話を続け、「水を一口」と自分から求めた。矢柄が動くたびに上がっていた悲鳴は、治療幕まで一度も出なかった。外科師が測った脈も、搬入時には百二十から九十六へ下がっている。厚布を巻くのに要した時間は一分二十秒。若い治療師が矢を抜く準備に費やしていた時間より短かった。
兵士は治療幕へ入る直前、イズメラへ自分の認識票を預けた。「戻ったら返せ」と言えるだけの余裕が残っていた。外科師はその一言も、出血が抑えられた証拠として記録した。
将軍は、矢を抜こうとした若い治療師から野戦箱の鍵を取り上げた。代わりにイズメラへ渡す。
「洗濯係に鍵は重いか?」
イズメラが首を振ると、将軍は救護隊の名簿を開いた。
『異物固定担当――イズメラ』
その日のうちに、全軍から厚布二百束の注文が入った。