振込票の右側
里緒は、式場の申込金を振り込むため、銀行の端末の前に立っていた。
画面には五十万円。今日中に払えば、春の会場が確定する。同じ口座には、独立のために貯めた百二十万円がある。会社を辞めて小さな編集事務所を始めるには、最低百万円必要だと計算していた。
智哉は、式を小さくしてもいいと言っている。里緒も、派手な式がしたいわけではない。ただ、その会場の古い窓から差す光を見たとき、ここで二人の始まりを残したいと思った。
スマートフォンには、二件の下書きがあった。
〈申込金、振り込んだよ〉
もう一件は、以前の取引先へ送る〈来月から独立します〉という営業の挨拶だった。
どちらを送っても、もう一方が嘘になるわけではない。ただ、同じ春にはできない。
式場の見積書には、花を一段減らすたび金額が下がる欄があった。独立の計画書には、受注が一件減るたび赤字になる表がある。削れば両方できるという計算は、もう何度も破綻していた。
二十九歳になる前に独立しなければ、一生会社員のままだという焦りがあった。結婚式を延期すれば、仕事を本気で選んだ人になれる気もした。逆に式を選べば、暮らしを大切にできる大人になれる気もした。
そのどちらも、肩書きに逃げている。
指先で数字を消すたび、春の椅子や花が一つずつ画面の外へ退いていく気がした。
里緒は振込先を確認し、金額を五十万円から十万円へ打ち直した。式場ではなく、事務所用の共同スペースの保証金口座だった。
確認画面で指が止まる。智哉には、会場を諦めるとまだ言っていない。春の日付は他の誰かに渡る。智哉が同じ形の結婚を望み続けるとも限らない。
里緒は十万円を振り込んだ。
明細票の右側に、残高が印字される。夢に十分な額ではないが、始めると決めた人の残高だった。
智哉への下書きを消し、〈会場には払わなかった。独立を先にする〉と書き直す。送信すると、営業挨拶の下書きも開いた。
春を失う代わりに何を得るかではなく、失った春の説明まで自分でするため、里緒は二件目の送信ボタンを押した。