推し色リップの脚注
化粧品売り場で働く千尋は、客が差し出した口紅を見て息を止めた。
深い葡萄色。千尋が同人小説の中で、別れを決めた主人公につけさせた色だった。実在の商品名は出さず、「夜を飲み込んだような紫」と書いただけなのに、その場面が読者の間で話題になった。
「これに近い色を探していて」
客がスマートフォンを見せる。画面には、千尋の小説の一節を撮った写真があった。作者名は「凪窓」。
「この人の本が好きなんです。主人公が最後に選ぶ色」
千尋は職場で推し活の話すら避けていた。美容部員は流行に詳しく、私生活も洗練されていると思われる。休日に恋愛同人誌を書き、深夜に通販箱を詰める自分は、その制服に似合わない気がしていた。売り場の自己紹介カードにも、好きなものは香水とカフェ巡りと書いた。本当に好きな物語のことだけ、きれいに抜いてある。
それでも、商品棚から一本選ぶ。
「でしたら、こちらです。青みが強くて、光が落ちると黒に近く見えます」
客が試す。鏡の中で色が静かに定着した。
「小説と同じ」
千尋はつい答えた。
「でも最後の場面は、別れの色じゃなくて、自分で朝を選ぶ色なんです」
客が鏡越しに振り向く。
「作者さんしか知らない解釈みたい」
隣で品出しをしていた同僚も、手を止めた。
千尋の頬が熱くなる。逃げ道を探したが、客は声を上げず、口元だけで笑った。
「凪窓さん?」
千尋は小さく頷いた。
客は口紅を持つ手を胸元へ寄せた。
「会えて嬉しい。でも、ここでは店員さんとしてお礼を言います。似合う色を選んでくれて、ありがとうございます」
会計後、同僚がバックヤードまで追ってきた。
「先生って呼ぼうか」
「売り場では絶対やめて」
「じゃあ千尋さん。今度、読ませて」
からかいではない声音だった。
翌朝、千尋はいつもの薄いベージュではなく、葡萄色の口紅を塗った。制服には強すぎると思っていた色だ。
鏡の前で一度ティッシュオフし、消しすぎないところで手を止める。
売り場に出ると、同僚は何も言わず親指を立てた。
千尋はその色のまま、開店の照明を点けた。