文鳥が言う、おかえり
商店街のサンドイッチ店「二枚目」には、レジの奥に文鳥がいる。
名前はしらす。白い体に灰色の頭をした小鳥で、店主の蕗子が「いらっしゃい」と言うたび、少し遅れて「オカエリ」と鳴いた。
磯貝宗一郎は、その声が苦手だった。
妻を亡くしてから一年、誰も待っていない家へ帰るたび、玄関の灯りをつけるまでが長い。だから夕方になると商店街を何周も歩き、腹が減ったところで「二枚目」に入る。
「卵サンド、端のところ」
宗一郎はいつも、パンの耳が少し残った端の二切れを選ぶ。妻は真ん中の柔らかい部分が好きで、結婚してから三十年、端は宗一郎の分だった。
蕗子が包みを渡そうとすると、しらすがまた鳴いた。
「オカエリ」
「ただいまじゃない」
「最近、そればかり教えたでしょう」
「教えてない。勝手に覚えたんだ」
宗一郎はむっとして、店内の小さな席で食べることにした。
卵は粗く潰してあり、白身の弾力が少し残っている。辛子マヨネーズは控えめで、胡瓜の薄切りがぱりっと鳴る。
「奥さん、最初に来たとき言ってましたよ」
蕗子がパンを切りながら話した。
「この人、端っこばかり選ぶから損してるように見えるけど、本人はそこが好きなんです、って」
「余計なことを」
「嬉しそうでした」
宗一郎は返事をせず、二切れ目へ手を伸ばした。
妻のいない家は、何も変わっていない。湯呑みも、裁縫箱も、冷蔵庫に貼った猫の磁石もそのままだ。変わったのは、物へ声をかける人が一人減ったことだけだ。
「帰って、何をすればいいんだろうな」
「お湯を沸かして、残りを食べたら」
「それだけ?」
「鳥だって、帰ったら水を飲んで寝ます」
しらすは止まり木で羽を膨らませた。丸くなると、卵サンドの具のようだった。
宗一郎は思わず吹き出し、蕗子にもう一包み頼んだ。今度は端ではなく、真ん中の二切れを選ぶ。
「珍しい」
「仏壇に半分やる」
「辛子、平気でしたっけ」
「嫌いだった。だから俺が食う」
店を出るとき、しらすが首を傾けた。
「オカエリ」
宗一郎は戸を半分閉めてから、初めて返した。
「ただいまは、家で言う」
紙袋から、温かな卵と焼きたてのパンの匂いが上がった。今夜は玄関を開けたら、誰もいなくても、声に出してみようと思った。