新しい鍵輪
東雲雛乃のスマートフォンには、不動産会社からの確認が届いていた。
「本日中に申込金のお手続きをいただけない場合、次の方をご案内します」
残り時間は四十分。雛乃は喫茶「銀杏」の隅で、振込画面を開いたり閉じたりしていた。
今の部屋は、恋人と借りた一室だ。別れ話は済んでいるのに、相手は出張が終わるまで待ってほしいと言った。家具の名義や荷物の整理を考えると、ひと月待つほうが穏便だ。雛乃もそう返事をした。
けれど内見した小さな部屋には、東向きの窓があった。自分だけの鍵を持つ生活を想像した瞬間、胸の奥が静かになった。朝の明るさを、誰かの生活時間に合わせず受け取れる部屋だった。
閉店を控えた店では、レジ横の古道具も売りに出されている。雛乃は真鍮の鍵輪を手に取った。丸い輪に、細長い革札が一枚。昔は店の倉庫鍵を下げていたらしく、革には四角い跡が残っている。
「輪、固いですか」
店主は小さな工具で継ぎ目を開いた。試しの鍵を一度通し、滑りを確かめる。外したあとも輪を完全には閉じず、新しい鍵をすぐ入れられる幅だけ残した。
会計を済ませると、店主は鍵輪を紙へ包まず、掌へ直接載せた。閉じれば包装を破らなければ使えないからだろう。革札の跡は消さず、そのままだった。
雛乃は自分の家の鍵を鞄から出した。二人で選んだ同じ形の鍵が、真鍮の輪へ触れる。今ここで付け替えれば、別れを演出しているようでためらわれた。
代わりに、不動産会社の画面へ戻る。
振込先を確かめ、申込金を送った。備考欄には自分の名前だけを入力した。
完了通知が来たとき、店主が入口の札を「CLOSED」へ返した。蝶番の音が一度鳴る。雛乃はまだ古い鍵を外していない。引っ越しも、荷物の話も、これからだ。
それでも新しい鍵輪の継ぎ目は、わずかに開いて待っている。
雛乃は革札を指で撫でた。以前の鍵が残した四角い跡の隣には、まだ何の形もついていない。
そこへ自分の部屋の鍵を通す日を、誰かの帰宅より先に決めてよかったのだと思った。