旧姓の領収書
柊木文香は、洋菓子店「コメット」で赤いジャムを絞ったロシアケーキを一枚選んだ。
結婚して二か月。戸籍の姓は変わったが、雑誌に載せる記事だけは旧姓のまま書き続けたかった。ところが編集部から、新しい契約書には戸籍名を使ってほしい、誌面の名前も統一したほうが読者に親切だと連絡が来た。旧姓で検索すれば、駆け出しのころの記事から最近の連載まで一つにつながる。姓を替えれば、その道筋だけが途中で切れる。
親切という言葉は、断りにくい。
ロシアケーキの中央には、真紅の苺ジャムが丸く光っている。周囲のクッキー生地には波形の絞りがあり、古い星のようだった。
会計で、店主が領収書の宛名を尋ねた。
「久我で」
新しい姓を口にしてから、文香は訂正した。
「すみません。柊木文香でお願いします」
店主は一枚目を破って捨てなかった。赤い訂正線を一本引き、その上に「取消」と判を押す。それから新しい紙を機械へ差し込み、柊木文香と印字した。二枚を重ねず、正しいほうだけを表向きにして菓子の袋へ添えた。
「取消分は、こちらで保管します」
文香は頷いた。間違えた名前をなかったことにするのではなく、手続きを踏んで選び直す。結婚したことも、新しい姓を嫌っているわけでもない。ただ、書いてきた七年分の名前を、便宜のために消したくない。
店主はロシアケーキの透明袋を金色の留め具で閉じた。赤い中心は隠れず、領収書の宛名も外から読めた。
店先で文香は編集部への返信を作った。
〈契約書は戸籍名で締結します。誌面の著者名は、これまでどおり柊木文香を希望します。二つを分けて管理してください〉
頼みではなく、希望と手続きとして書く。最後に、過去記事の著者ページへのリンクを添えた。
送信してから、ロシアケーキを割る。ジャムの円も一緒に割れたが、赤さは左右どちらにも残った。
文香は袋から領収書を出し、宛名をもう一度見た。選び直した名前は、紙の上で思った以上にまっすぐだった。