旧姓欄の赤い線
住宅ローンの金利確定まで、残り一時間だった。
銀行窓口の最終勤務日、柊木澄玲は一件の申込書を差し戻すよう指示された。本人確認書類は現在の姓、給与振込口座だけが旧姓。審査画面には赤字で〈名義不一致〉と出ている。客は今日の金利で契約するため休暇を取り、保育園の迎えまでに手続きを終えたいと伝えていた。客は契約日に合わせて引っ越し業者まで手配しており、再申請になれば予定をすべて組み直すことになる。
新人は客へ、口座名義変更後に再申請してもらう電話をかけようとしていた。そうすれば今日の金利には間に合わない。
澄玲は申込書の履歴を開いた。客は三週間前に名義変更届を提出し、窓口では処理済みになっている。だが住宅ローンのシステムだけ、全角の空白を含んだ旧データを参照していた。本人が手続きを怠ったのではなく、銀行の中で名字が二つに分かれていたのだ。
「お客様にやり直してもらう前に、こちらの処理を直そう」
澄玲は新人へ電話を置かせ、事務センターへ更新を依頼した。本人確認書類、受付控え、変更履歴を一つの画面へまとめ、例外承認を取る。客には再提出ではなく、銀行側の不具合であることと、今日中に確定させることだけを伝えた。
支店長は、そこまで手間をかけず翌月扱いにすればいいと言った。
「金利差は小さい。名字を変えたなら、多少の手間は仕方ないでしょう」
澄玲は赤い線の横へ、〈顧客起因ではない〉と入力した。
「仕方ない手間を、いつも同じ人へ払わせるのは手順ではありません」
午後二時五十八分、審査は通った。客から届いた礼のメッセージには、名字の説明を何度もしなくて済んだことが一番助かった、とあった。澄玲は旧姓欄を理由に自動差戻ししない確認項目を作り、新人へ処理番号を渡した。
来週から澄玲は、金融サービスの本人確認画面を設計する会社で働く。面接では、利用者が制度に合わせるのではなく、制度が生活の変化を受け止める画面を作りたいと話した。大げさだったかもしれない、と今朝までは思っていた。
支店を出る前、転職先から届いた入社前アンケートを開く。最初に改善したい画面へ〈改姓後の本人確認〉と書き、採用承諾と一緒に提出した。
赤い線を、人の事情ではなく、直すべき場所へ引くために。