明日の天気欄
遥帆の休憩室には、刷りたての新聞がいつも一部だけ置かれている。
午前二時五分。輪転機は壁の向こうで高速に回り、床が細かく震えていた。ごう、と紙が走り、規則正しく折られ、束になる。天井の蛍光灯も同じ震えを受けて、白い光をわずかに揺らしている。
外は雨だが、窓はインクの薄い膜で曇り、街の様子はよく見えない。
遥帆は机の新聞を開いた。まだ配達されていない明日の朝刊。社会面も広告も、今この部屋では未来の紙だった。
天気欄の「雨のち曇り」に、赤いボールペンで丸がついていた。余白には小さく「傘」とだけある。
誰が書いたか分からない。編集部から降りてきた人か、印刷担当か、休憩を終えた配送の人かもしれない。自分への伝言ではないだろう。それでも遥帆は、その二文字をしばらく見た。
先週、実家から電話があった。父が「そっちは晴れか」と聞き、遥帆は窓を見ずに「たぶん」と答えた。夜勤の生活では、天気は通勤のときしか触れない。朝の雨も昼の青空も、眠っている間に通り過ぎる。
遥帆の指には、洗っても落ちきらない墨が爪の際に残っていた。朝の読者は、その指を知らない。紙面をめくる音だけを聞き、文字を読む。それで仕事は成立する。見えないことと、なかったことは同じではない。遥帆は親指の黒い線を新聞の余白へ重ね、すぐ離した。跡はつかなかった。
輪転機が一段速くなる。
紙が走る。
換気扇がインクの匂いを吸う。
机の端では、小型扇風機の羽根が回り、新聞の角を持ち上げては落とした。
休憩室のドアが開き、腕まくりをした人が顔を出した。
「その面、もう見ました?」
「天気だけ」
「十分です」
相手は笑うでもなく、冷蔵庫から水を取り、すぐ出ていった。残ったのは、濡れた靴底の半月形だけだった。
遥帆は新聞を閉じず、天気欄を上にして置いた。
明日の紙には、もう明日の雨が印刷されている。誰かがそれを読み、誰かが傘を持つ。遥帆が眠っている時間にも、赤い丸の意味は街へ広がっていく。
休憩終了のベルが鳴った。
遥帆は自分の折り畳み傘がロッカーにあることを思い出した。帰る頃、雨がやんでいても持って出ようと思う。
夜を一人で終えるには、明日の天気を一つ知っているだけで足りることがある。