春の居間に雪は降らない
鴇崎顕吾の母は、介護施設の六畳間で三十年前の春を暮らしていた。感覚環境AIが壁を昔の居間に見せ、煮物の匂いを漂わせ、窓の外へ満開の桜を咲かせる。母は毎朝、亡くなった夫のために湯呑みを二つ並べた。
顕吾が訪ねると、AIは彼の老いた顔を若い夫の顔へ補正した。母は「お帰りなさい」と笑った。息子として呼ばれなくなって一年、顕吾は訂正をやめた。父のふりをすれば、母は薬を飲み、穏やかに眠った。施設も「幸福度が高い」と評価した。
冬のある日、外では雪が降っていた。母は桜の窓を見ながら言った。
「顕吾は、今年いくつになったの」
顕吾は息をのんだ。母が自分の名を口にしたのは久しぶりだった。
「六十二だよ」
「そんなに待たせたの」
母は、景色を切ってほしいと言った。職員は認知混乱が進むと止めたが、顕吾は解除した。桜は消え、黄ばんだ壁と医療機器が現れた。煮物の匂いは消毒液に変わり、窓の外では本物の雪が舞っていた。
母は長い間、顕吾の皺を見た。
「お父さんに似てきたね」
妻は顕吾に、「あなたは母さんを守っていたんじゃなく、息子として忘れられるのが怖かったのね」と言った。顕吾は否定できなかった。父の顔なら歓迎され、息子の顔では不安がられる。その違いから逃げるため、彼もまた桜の居間を利用していた。解除後の面会で母に追い返されるたび、顕吾は廊下で十分待ち、別の客として入り直した。何度忘れられても名乗ることが、ようやく彼の介護になった。
翌朝、母は再び夫を待つ人に戻った。けれど顕吾はもう父の顔をかぶらなかった。母が不安がれば、息子だと名乗り、昔の話を最初からした。幸福度は下がり、面会には時間がかかった。
最後の週、母は一度だけ顕吾の手を握り、「冷たいね」と、目の前にある現在の温度を言い当てた。
春、母は亡くなった。葬儀の日は雪だった。顕吾は棺へ造花の桜ではなく、窓辺に積もった雪を小さな瓶に入れて置いた。溶ければなくなる、本物の季節だった。