春までのマフラー

水瀬杏奈は、会社の採用面接へ向かう途中、駅前で震えている女性を見つけた。薄いスーツに素足のパンプス。大学生らしいその人へ声をかけようとして、鞄の中の灰色のマフラーに触れた。

高校の卒業式の日も、風が冷たかった。

杏奈は母の再婚で、式の翌朝には遠い町へ引っ越すことになっていた。誰にも詳しく話せず、「まあ、連絡すれば会えるし」と明るく振る舞った。教室で写真を撮るたび、自分だけ先に背景へ変わっていく気がした。

校門を出たところで、透子が杏奈の首へマフラーを巻いた。

「返す」

杏奈は冬の間、何度も借りていた。透子は寒がりなのに、部活帰りに必ず半分を杏奈へ寄こした。

「今日は杏奈がしてて」

「明日、引っ越すんだよ」

「じゃあ、春になったら返して」

春になれば会う約束ができる。透子はたぶん、そのために言ったのだ。杏奈も分かっていたから、強く頷いた。

けれど春、杏奈は新しい学校でうまくいかず、透子からの着信に出られなかった。夏になって返事をしたときには、何を話せばいいか分からなくなっていた。連絡は年に一度になり、やがて途切れた。マフラーだけが、季節を何度越えても杏奈の手元に残った。

返せなかったことを、杏奈は長く裏切りのように思っていた。マフラーを見るたび、電話に出なかった春だけを思い出した。けれど二十代の終わりになって、透子が渡したのは返却期限ではなく、その日を越えるための温度だったのかもしれないと思う。約束には、期限を過ぎたあとも別の使い道がある。

駅前の女性が、スマートフォンを見て青ざめた。「会場が分からなくて」と独り言のように言う。杏奈が行き先を尋ねると、自分と同じビルだった。

杏奈は灰色のマフラーを差し出した。

「面接が終わるまで使ってください」

「でも、返せるか……」

その言葉に、杏奈は笑った。

「春まででいいです」

二人は並んで歩き出した。透子との約束を誰かで埋めたいわけではない。あの日もらった温度を、返却ではなく、その先へ渡せるようになっただけだ。

ビルの回転扉の前で、女性はマフラーをきちんと巻き直した。杏奈は冷たい首元のまま、それでも背筋を伸ばして、自分の面接会場へ入った。