暗がりのコウモリ
集合住宅の管理人は、夜の巡回で鳴き声を聞いた。
地下倉庫の粘着板に、小さなコウモリが張り付いている。
油で羽を外し、屋上から放したのは五年前だった。
停電の夜、非常灯まで消えた廊下に、黒いパーカーの少年が現れた。
耳が大きく、目はほとんど閉じている。
「明かりが全部消えている間だけ、声にできない助けを一つ聞けます」
コウモリの恩返しらしい。
少年は天井へ顔を向け、
「八階」
と言った。
管理人は懐中電灯を点けようとしたが、
「点けると聞こえない」
と止められた。
暗い階段を手すりだけで上る。
八階には、一人暮らしの若者がいる。家賃を滞納し、管理人は明日、退去の話をする予定だった。
扉を叩いても返事はない。
少年は、
「中で『来ないで』と『気づいて』が同じ速さです」
と言った。
管理人は合鍵を使わなかった。
扉の外へ座り、
「停電の確認です。開けなくていい。返事も声でなくていい」
と話した。
内側から、床を二回叩く音がした。
若者は仕事を失い、郵便も電話も開けられなくなっていた。部屋へ入られるのが怖い。けれど停電の暗さで一人になるのも怖い。
管理人は扉越しに、復旧までの時間を伝えた。
少年も隣で耳を澄ませる。
「水はありますか」
一回。
「明日、支援窓口へ一緒に電話しますか」
長い沈黙のあと、二回。
電気が戻り、廊下が明るくなる。
黒い少年はコウモリへ戻り、窓の隙間から消えた。
翌日、管理人は退去通知だけを持っていかなかった。
制度の資料と、家賃の相談表も持った。
若者は扉を少し開けた。
すぐ解決はしない。滞納分も消えない。
それでも支援員へ電話し、仕事の相談を始めた。
管理人自身も、遠くで暮らす息子からの着信を何度も無視していた。
借金の相談だと思い、また頼られるのが嫌だった。
夜、電話をかけ直した。
息子の用件は、
「今度、子どもを連れて遊びに行っていいか」
だった。
声にできない助けは、暗闇でしか聞こえないのではない。
こちらが答えを決めて明かりをつける前に、少し黙って待つと聞こえることがある。
停電は直った。
管理人は巡回用の灯りを持つ。
ただ扉の前では、一度消して、内側の小さな音を待つようになった。